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KUYOMI

花冷の醤油の瓶にかこまれをり ねじめ正也

 

もうこれだけで「ああ、商売をしているんだな」と分かる。「花冷」だから、その商売ももしかしたらはかばかしくないのかな、しかしこの後は確実に春が暖かさを連れてくるはず、それまでの辛抱だと思ってるのかな、などと想像できる。作者は高円寺北口銀座商店街(現・高円寺純情商店街)で乾物屋を営んでいたが、のち民芸店に商売替えしている。「花冷」(時候)と「醤油の瓶」(生活・人事)との「取り合わせ」が何とも新鮮。桜の薄いピンク色と醤油の闇を思わせる色のとり合わせもいい。「花冷の醤油の瓶」だから、「花冷」は当然「醤油の瓶」にかかっているわけだが、その「瓶」に「かこまれている」ということは、当然作者も花冷の中にいる、ということになる。「婉曲表現」は日本人のお家芸だが、ここにもその流れが生きていて「粋」である。江戸っ子は特に、「直接表現」の「野暮」を嫌った。いっとき寒さを辛抱すれば、醤油にも、それを売る店主である自分にも、春は確実にやってくる、きてほしい、そう言っているようだ。ねじめ正也(1919-1998)には他に/二月商戦眉目秀麗のピエロ得て/町あげてミスコンクール秋蝿殖ゆ/春の夕焼背番「16」の子がふたり/あきなひや蝿取リボン蝿を待つ/風に落つ蠅取リボン猫につく/太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ/自転車の税の督促日短か/など。

 

 

チューリップ明るいバカがなぜ悪い ねじめ正一

 

「明るい馬鹿」の反対は「暗い利口者」、傍にいてほしいのは、どっち?明るい→ノーテンキ→深くものを考えない→バカ、こういう方程式を鵜呑みにしている方が、もしかしてよっぽど考え無しのバカなのでは、と思うことがある。テレビで見たことがあるが、内戦で家を爆破され、両親を一度に失った5歳ぐらいの子供が、近所の人の腕に抱かれてケラケラ笑っていた。その奇異な反応について、心理学者が言うには、人は極限状況に置かれると、なぜか笑いがこみ上げてくるらしい。恐怖と絶望のどん底における極限の反応が「笑い」とは、「いのち」は何と玄妙なのだろう!明るい人は、一見バカっぽく見える。しかし、もしかしたらその生い立ちや背景に、想像を絶する闇を抱えている、もしくは、いた可能性がある。底の底まで追い詰められ、万策尽きた心理的、肉体的極限状況。這い上がり、突き抜けざるを得なかった結果、明るくなるしかなかった、、、かもしれないのだ。生き延びる苦肉の方策としての「笑い」、、、虔十やイワンのように、バカにはバカにしかできない仕事があり、彼らはもしかしたら彼らを馬鹿にする人より、偉大なことを成し遂げるよう、神様に用いられているのかもしれない。芭蕉が「わび」「さび」「しおり」「ほそみ」を追求し、晩年「かろみ」の句境に到達したのは、当然の帰結であり、故なきことではないのだ。俳句もどこかに「滑稽」の匂いのしないものは、一見深そうで、実は底が浅いのかもしれない。ねじめ正一(1948-)には他に満月を四つに畳んで持ち帰るちょん髷を咲かせてみたし豆の花ビリビリっと尻尾の先まで猫の恋ライオンの喉の奥まで青嵐おむすびに一茶を入れてあそびましょう日傘からカラダはみ出る午後三時しまうまのしまがのびてる小春かな/など。

 

 

 

家にゐてガム噛んでゐる春休み 野口る理

 

よくある景なのに、こうやって言葉にしてみると「意外性」がある。「春休み」と「家にいてガムを噛む」という「ありそうで」「頻度はそれほど高くない」もの同士の組み合わせだからだろうか、「新鮮」に感じる。「夏休み」でも「冬休み」でもない、宿題もなく、時間をやり過ごすことだけが課題の、一種モラトリアム的な、これぞ「春休み」って感じ。こう見えて「季語の本意」をしっかりと掴んだ、説得力のある作りになっている。長期の休みだからといって、どこかへ出かけるとは限らない。休みの大半は家で過ごす、という人も結構多いだろう。では家にいて何をするかというと、人は実に色々のことをしている。特段何かをするというわけでなく、「たまたま」ガムを噛んでいた、そういうこともあるだろう。実際多くの人は、作者と同じ体験をしたことがあるに違いない。しかし「春休み」に「家にいて」「ガムを噛んでいる」ことが、まさか「詩」になると思わないから、はなから論外として詠おうとはしない。そこに「詩」を見出し、すかさず「言葉にしてみせる」のが俳人の俳人たる所以。「日常のなかの些細な非日常(たまたま)に目を凝らせ」だ!野口る理(1986-)には他に唇に歯をのせてゐる残暑かな茶筒の絵合はせてをりぬ夏休みアップルパイ貰ふ切る刺す噛む飲み込む梅雨寒し忍者は二時に眠くなるふらここを乗り捨て今日の暮らしかな襟巻となりて獣のまた集ふ春疾風聞き間違へて撃つてしまふ/など。

 

 

 

冬景色なり何人で見てゐても 田中裕明

 

民主主義の基本原理に多数決がある。人数の多い・少いで、物事を決める「方法」のことだ。よって、現在の私たちの置かれた社会状況というものは、多分に多数派が作り上げた、といっても過言ではない。問題は、多数派がいつも正しいか、ということである。実際国会の審議を見ていると、多数派ほど党利党略に毒されて、正論・正義がそっちのけであることが手に取るようにわかる。多数派の意見で世の中は変わってきたように錯覚しているけど、実際本当に変わったのか?上辺は変わったように見えるけど、中身は旧態然としているではないか。「冬景色」の季語が極めて意味深に見えてくる。「人数が多かろうが、少なかろうが、そんなもの、景色を変えるには、何の役にも立たないのさ」、そう作者が言っているようだ。田中裕明(1959-2004)には他に冬空やもとよりうすき佛の目末枯やカレー南蛮鴨南蛮櫻見てゐてもう遅櫻のはなし汚れたる瓜の冷してありにけり菜の花や中学校に昼と夜人間は約束をして山笑ふ瀧を見る最も若き家族かなとほり抜け夏の瀬戸物屋は長し/など。

 

 

 

すでに女は裸になつてゐた「つづく」 加藤静夫

 

たぶん本の文章をパクって、そのまま句にしたか、もしくは、限りなく三文小説仕立てにしてみた句。加藤には「ポインセチア(中略)泣いてゐる女」という句もあり、小説の一部を切り取ったかのような体裁にして句を「ドラマ仕立て」にしてみせるのは、彼の得意な手法の一つ。俳句のモチーフに困ったり、発想に行き詰まりを感じた時には、大いにパクリたい手法。ただし「取り合わせ」が問題。「女の裸」と「つづく」だから当然読者は濡れ場を想像するし、「ポインセチア」と「泣く女」だから「いったいなにがあったんだろう」と想像は掻き立てられる。17文字の小説を書くつもりで、いかに読者の「想像力を掻き立てるか」が鍵。「つづく」や(中略)の、「 」や( )で「隠されたドラマ」、ここを想像させ「読者の頭の中で完結する」ように仕立てる、そのために言葉を選び抜く、その工夫が成否を決める。加藤静夫(1953-)には他に東京の春あけぼのの路上の死ラブホテル正午の水を打ちにけり花火尽き背後に戻る背後霊三十分のちの世恃む昼寝かな断酒より断食易し草の絮蝌蚪に足われに労働基準法午前中の涼しいうちに別れよう葛飾やあたたかさうな焼死体など。

 

 

 

灯火親し英語話せる火星人 小川軽舟

 

「あるある感」満載の句。確かに!言われてみればそうである。「英語」と「火星人」の取り合わせが可笑しい。この発見はいくらでも応用が利く。『ぐりとぐら』の絵本なら、「飼うならばカステラつくる嫁が君」なんて句にできるし、『坊ちゃん』なら、「灯火親し聖母(マドンナ)は口つぐみをり」でもいいし、いくらでもできる。日常のなかの盲点・落とし穴=「言われてみれば、確かに」を見つける眼力、それが俳句を、俳句足らしめる。小川軽舟(1961-)には他に実のあるカツサンドなり冬の雲我法学士妻文学士春の月しぐるるや近所の人ではやる店げんげ田の風がまるごと校庭に牛冷すホース一本暴れをり十一月自分の臍は上から見るかつてラララ科学の子たり青写真葉桜や好きなもの買ひ夕餉とす/など。

 

 

 

白南風や化粧にもれし耳の蔭 日野草城

 

こういうところに眼がいくのが、まさに俳人だなあ、と思わされる句。季語の「白南風」は梅雨明けに吹く湿った風。いよいよ夏本番、肌の露出も多くなる季節だが、耳の後ろだけはいつも盲点のように油断していて、化粧の対象からは外されている。その油断が、夏の解放感に通じているといえば、通じている。また、夏は陽射しがきつい分、「蔭」をことさら意識する季節でもある。日焼けを気にして、厚化粧になりがちな女性。だからこそ、永遠の化粧処女地である耳の蔭、それがいっそう目立つのだ。日野草城(1901-1956)には他に短日や盗化粧のタイピスト重ね着の中に女のはだかありひとりさす眼ぐすり外れぬ法師蟬秋風やつまらぬ男をとこまへ店の灯の明るさに買ふ風邪薬鈴虫の一ぴき十銭高しと妻いふてのひらに載りし林檎の値を言はる妻子を担ふ片眼片肺枯手足など。

 

 

 

踏台に乗らねば出せぬ夏帽子 大牧 広

 

「帽子」といえば「かぶるもの」と思い込んで、安易に「かぶっている帽子」を詠んで得々としている御仁の、なんと多いことか!この句には、目から鱗を引っぺがされ、こじ開けられる。帽子の「在り様」には様々なバリエーションがあって、「かぶる」はそのバリエーションの一つに過ぎない。句作の時には、ついそのことを忘れてしまう。帽子だけでなく、ほかの物もそうだ。コートも着ているとは限らない。ハンガーや釘に掛かっているとも限らない。くしゃくしゃに脱ぎ捨てられていたり、毛布代わりに体を覆っていたり、きちんと畳まれていたり、売られていたり、袋や箱に入っていたり、お下がりで譲ったり譲られたり、リフォームで他のものに作り変えられたり、、、それこそコート百態・百変化、色んな様態・形態がある。技術以前に、見慣れ過ぎて、誰も眼を付けなさそうな様態に目を付ける、それだけで、俳句のほぼ九割がたは成功、そんな気がする。大牧 広(1931-)には他に岬にて颯爽と風邪ひきにけり抽斗にいのちの薬混みて冬曼珠沙華在来線のために咲く東京の一等地にて雑炊食ぶ洞窟に似し一流の毛皮店竹婦人売られ文教地区といふ花野より赤字空港が見ゆる鵙の贄見てより鵙が好きになるなど。

 

 

 

深夜椿の声して二時間死に放題 金原まさ子

 

この作者は何と!御年105歳。49歳で作句を始めたというから、句歴半世紀を優に超えている。吟行はしない、机上妄想派。「私、外で俳句の素材を集める吟行はいたしません。机上派です。活字やニュースから短い単語をキャッチして、俳句にするのが好きです。そのちょっと変わった言葉拾いが、いわば、私のウリ」、だそうだ。この句も多分そうやってできた、言葉のコラージュ句。「因果関係」を詠んでいるようで、その「因果」がどうにも説明不能。金原は小さいときから友達を作らず、一人文芸誌や、夢野久作、江戸川乱歩、龍膽寺雄などを読み耽っていたらしい。特異な個性を育もうと思ったかどうか知らないが、そんなまさ子に「みんなと一緒」を強要しなかった親が、偉い!100歳を過ぎても、とにかく好奇心旺盛。ボーイズラブや、フィギュアスケートの羽生結弦など、美しい男が大好き、と公言して憚らない。この御歳で整形にも興味があるらしい。100歳で自身のブログも始めた。毎日一句を欠かさない。「永遠の少女」。見上げた長寿者である。金原まさ子(1911-)には他にわが足のああ堪えがたき美味われは蛸つまりただの菫ではないか冬の中位のたましいだから中の鰻重冬バラ咥えホウキに乗って翔びまわれ流転注意そこは土筆のたまり場よ白磁に盛るひかりごけのサラダとさじ別々の夢見て貝柱と貝はなど。

 

 

 

数へ日や一人で帰る人の群 加藤かな文

 

「一人」と「群」という相反するものが破綻なく同居する、大袈裟に言えば、17音で描く「象徴宇宙」。人体も、自然界も、宇宙も「相反するものが同居している世界」である。交感神経と副交感神経は真逆の働きをし、絶えずシーソーのようにぐらぐらしながら、バランスを崩さないよう、崩さないようにと、自律的にコントロールしている。ホルモン然り、腸内細菌然り、好気性の菌もいれば嫌気性の菌もいる。その他もろもろ、みなそうなっている。植物界も動物界も同じで、明るいのが好きな植物もいれば、明るいのはどうもという植物もいる。サボテンみたいに乾いたところが好きという植物もいるし、水草のようにどっぷり水浸しでなきゃ嫌という植物もある。夜行性の動物もいれば、昼行性の動物もいる。陽子と電子もあれば、物質に対する反物質もある。氷の世界で生きる生物もあれば、熱水の傍で大繁殖しているものもいる。相反するありとあらゆる要素の組み合わせを試している実験室、それが地球であり、宇宙なのだ。だから相反する一方を否定したり、排除したりするのは、自然に反する行為ということも言えるかもしれない。それは多様ではなく、画一性・一様を結果的に求める行為だからだ。俳句も、この句のように、できれば陰・陽の太極図のように「相反するものが同居した形」に作ると、小さいながらも自立した大きな世界が描けるような気がする。なにしろ俳句は「自然」を詠う、それが主眼の文芸だからだ。加藤かな文(1961-)には他にどんぐりに穴あいてゐる冬休み立冬や鏡に乾く歯磨粉困るほど筍もらふ困りをり筍と蟻の出てくる新聞紙うなだれてトレンチコート吊さるる夾竹桃踏切が開きまた歩くすることのなくてしばらく春の風邪夏祭つまらぬものを買ひにけりなど。

 

 

 

仏間にてビーチパラソル開きみる 今井 聖

 

「仏間」と「ビーチパラソル」の「異種配合」で「詩的効果」を狙っている。b音の「ことば遊び」のように見えるが、リアリティがある。例えば「キッチン」は料理だけをするところとは限らない。人によっては日記を書いたり、俳句をひねったり、友人と携帯でメールや電話し合ったりする空間にもなる。「ここはこういうことをするところ」という「固定観念」を外せば、日常の住空間も、立派な俳句の素材を提供してくれる空間なのだ。本来の用途とは外れたことをやっているとき、それが「チャンス」。すかさず一句仕立てるぐらいの貪欲さ、「俳句の種を素早く見つける」俊敏さが求められる。今井 聖(1950-)には他にレグホン千の共同不安冬の雲校舎とも病舎とも見え燕来る苗代に満つ有線のビートルズ水仙を接写して口尖りゆく顎紐や春の鳥居を仰ぎゐるスリップ痕囲む白線夏燕嫌ひな方の祖母に抱かれ墓参アイス捨てファウルボールを捕りたるよなど。

 

 

 

お面らの笑みて祭を売れ残る 坊城俊樹

 

多分このお面は「お多福」のお面だろう。他のお面は殆ど「無表情」に売れ残るから、にこにこと「笑って」売れ残る、その「違い」に目がいったのだろう。ここには結婚できない女達への、既婚者からのメッセージが忍ばせてあるような気がする。「縁遠い女たちよ、そう渋い顔をしなさんな。結婚しているかどうかより大事なのは、笑って暮らせること。結婚したからって笑えるとは限らないよ。にこにこと無理なく笑っていられれば、それが何よりも宝、一番大事なことなんだよ」、そんな声も聞こえてくるようだ。結婚が果たして幸せとイコールかといえば、今は2、3組に1組は離婚する時代。今のままで十分幸せなら、別に結婚に拘らなくてもいいんじゃないの、と私も思う。坊城俊樹(1957-)には他に雪女くるべをのごら泣ぐなべやすたこらと寒明けてをり猿股もほつぺたをぴかぴかにして入学す嘘も厭さよならも厭ひぐらしも日脚伸ぶとは護美箱の中までもももいろの舌が嘘つく春の朝ゴールデン街より電線の秋の空取締役会長も花粉症など。

 

 

 

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す 正木ゆう子

 

ka音のリフレインが意識的に用いられて、愛誦性がある。「飼い殺す」には「能力を発揮できるような仕事を与えないままに、ずっと飼っておくこと」という意味のほかに「家畜が役に立たなくなっても、死ぬまで養うこと」という意味があり、動物園の展示用なら前者、鷹狩用の鷹なら、後者の意味になる。「風を飼い殺す」で「詩」になっている。私なら前者に読んで、食べることには困らないものの、本領を発揮できないまま一生を終える鷹の、忸怩たる、かつ暴風のポテンシャルを秘めた、風のような心を想いたい。正木ゆう子(1952-)には他に魔がさして糸瓜となりぬどうもどうもひぐらしや尿意ほのかに目覚めけり着膨れてなんだかめんどりの気分アマリリス男の伏目たのしめりサヨナラがバンザイに似る花菜道熊を見し一度を何度でも話すそれは少し無理空蝉に入るのはなど。

 

 

 

柚子風呂に聖痕のなき胸ひたす 有馬朗人

 

物理学者でもある同じ作者の句に「イエスより軽く鮟鱇を吊りさげる」「露を置く野のキリストの足の釘」などがあり、科学を探求するものとして、宗教が常に意識のどこかにあることが窺われる。科学は自然の仕組みや不思議を探求し、真実に迫る学問なので、その彼が俳句に長じたことは、ごく自然な帰結だったろう。その自然は造物主によって創られた、と堅く信じるのが世界最大の宗教キリスト教である。自然は造物主の英知の産物であり、英知を持たない単なる偶然が、法則性や秩序あるものを生み出すはずがない、というのがその信仰の根拠である。何故なら、法則性や秩序は、知性による制御の産物だからだ。そして、科学もある種の信仰であることに、作者も気づいたに違いない。キリスト教の創始者イエス・キリストは磔刑に架けられた時、30歳をわずかに過ぎたばかりだった。おそらく死後、当時の世から激しいバッシングを浴びた自分の教えが、これほどの隆盛を見ることなど、予想だにしていなかっただろう。手と足を釘付けにされ、上下動がままならない中、最終的に呼吸困難から来る心臓破裂で死んだイエス。その死を確かめるために、彼の脇腹に鎗が刺し入れられたが、胸の「聖痕」はその刺し創のことだろう。イエスの年齢をはるかに超えて生き延びてきた作者は、「私は此の世のものではない」と言ったイエスとは真逆に、世に受け容れられ、世に重んじられて「この世の紛れもない一部」としてその生涯を送ってきた。自分とイエスの、「同じ」と「違い」をしみじみ意識するのは、己の裸の無傷な胸を目にした時。それが果たして幸いなのか不幸なのか。柚子の香りのする胸が、その答えだと思いたい。有馬朗人(1930-)には他にあやとりのエッフェル塔も冬に入る春や春まづはぶつかけうどんかなのみとりこ存在論を枕頭に秋の日が終る抽斗をしめるように日向ぼこ大王よそこどきたまえ梨の花郵便局で日が暮れるなど。

 

 

 

性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽

 

巷に出回っているシクラメンは、ほとんどが野生種を改良した温室育ちである。冬の窓辺に飾られることの多い花で、様々な色や形の変種が開発されているが、この句のシクラメンは燃えるような赤。なぜなら、かの八百屋お七を連想させるのはこの色しかないからだ。ご存知八百屋お七は、大火で焼け出されて避難した寺で、出会った寺小姓に一目惚れ。家が建て直され会えなくなったことから、自分の家が燃えてしまえば、また彼に会えるのではという浅はかな考えで、はた迷惑も顧みず自宅に放火した娘である。当時は木造家屋がほとんどであり、いったん火事が起きるとたちまち燃え広がったから、付火(放火)は、たとえボヤ程度で済んだとしても火炙りの刑と決まっていた。お七の場合も、すぐ消し止められ大事には至らなかったが、鈴ヶ森刑場で火炙りになっている。事件を間をおかず戯曲に仕立て上げることで名を馳せた井原西鶴も、三年後『好色五人女』で八百屋お七を取り上げている。八百屋お七という「和」名と、シクラメンという「洋」名、「昔」と「今」の取り合わせ。お嬢さん育ちで世間知らずのお七のように、シクラメンも温室育ちゆえ、翌年も花を咲かせるのは難しい短命な花である。京極杞陽(1908-1981)には他に初湯中黛ジユンの歌謡曲大阪の冬日やビルにひつかかり山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨貧乏は幕末以来雪が降るうしろ手を組んで桜を見る女ハンカチは美しからずいい女大衆にちがひなきわれビールのむ香水や時折キツとなる婦人など。

 

 

 

落葉焚き人に逢ひたくなき日かな 鈴木真砂女

 

日頃客商売をしている真砂女なればこその感慨だろう。本音を押し殺さねばならない、神経を張り詰める毎日に少し疲れてくると、落葉焚きしながらの、何も考えない、無念無想のぼーっとした時間がすごく貴重なものに思える。ある種の脳の過労からくる人疲れ。人が好きでなければ客商売などできないが、人に会いたくない気分の時もあるのは確か。西田幾太郎が「絶対矛盾の自己同一」と言い、清沢満之が「二項同体」と言ったように、存在は相反する二つの間で揺れ動くのが自然。俳句に自己の本音を吐き出すことで、自己も他者も解放されるのは確か。自分を飾らず、取り繕わず、本音を出せば、俳句も世の中も随分と風通しのいい面白い世界になるだろう。鈴木真砂女(1906-2003)には他に笑ひ茸食べて笑つてみたきかなゆく年を橋すたすたと渡りけり腹立ててゐるそら豆を剥いてをり鰤は太り秋刀魚は痩せて年の暮カーテンを二重に垂らし寝正月目刺焼くくらし可もなく不可もなく不機嫌の二つ割つたる寒卵/など。

 

 

 

麗らかに捨てたるものを惜しみけり 矢島渚男

「麗かに惜しむ」これがこの句の眼目。「捨てたものを惜しむ」、これは「よくあること」。しかし「惜しむ」に「麗か」の形容が結び付くことなど、誰が考えようか。この「誰も考えないことを考え付く」、「まだ誰も見つけていない表現を見つける」、そしてそれを17文字にする、「誰にも似ない、たった一人の自分」を表現する、それが「俳句」なのだ。矢島渚男(1935-)には他にしとしては水足す秋のからだかな俺たちと言ふ孫らきて婆抜きす栗飯に間に合はざりし栗一つ桃咲くやゴトンガタンと納屋に人子を走らす運動会後の線の上猟銃が俳人の中通りけり老人の暇おそろしや鷦鷯(みそさざい)など。

 

 

鶏追ふやととととととと昔の日 攝津幸彦

 

17文字中「と」が8つも使われている。3つ4つの韻でお茶を濁しがちな中、それに準じることをよしとせず、やるかぎりはトコトンやってやろうじゃないのという、この「生ぬるさ」や「中途半端」を嫌う気概がいい。今思うと、私が俳句と出会う、一番最初のきっかけをくれたのは、攝津幸彦だった。短歌を塚本邦雄から入り、岡井隆を経て小池光にたどり着いたとき、小池の口から、ある日攝津幸彦の名前が出た。10年ほど前のことである。早速彼の句集を買って読み、その斬新さとともにその「無意味さ」に何とも言えぬ魅力を感じてしまった。「意味の地獄」という言葉も、確か小池から聞いたような気がする。「暗闇に細胞膜を消去して人間といふ沼が寝てゐる」という歌を作り、それから暫くして短歌から足を洗った。その直後、暗黒舞踏の舞踏家くずれと何年か一緒に暮らし、彼の舞台にかかわったが、その一つに横浜三渓園の中に移築された重文を舞台にしたパフォーマンスがあり、そこで私が攝津の句を朗読し、彼が踊るということがあった。もう一つは、舞踏家が一堂に会して大野一雄の100歳記念の祝賀会を横浜でやった時、やはり攝津を私が朗読し彼が踊るということをやった。今思えば、俳句は作っていなかったものの、攝津の句の「詩」性をどうにかして観客に知らしめたい、という変な使命感があったような気がする。俳句も黴臭いものではなく、現代の鑑賞にも立派に耐えるものであることを知ってほしかったのかもしれない。我が家でも鶏を飼っていたので、この句の景はそのまま私自身の経験である。昔卵は貴重だった。ごく普通のサラリーマン家庭であった我が家も、庭の片隅に鶏小屋を作り、縁日かどこかで仕入れたヒヨコを育て、卵を産ませ、産まなくなれば絞めて肉をいただいた。絞めた鶏の羽根を毟るのは私の仕事だった。食べ物が「もの」ではなく「命」であることを肌で実感していた時代、それが「昔」なのだ。攝津幸彦(1947-1996)には他に国家よりワタクシ大事さくらんぼ物干しに美しき知事垂れてをりなんとなく生きてゐたいの更衣さやうなら笑窪荻窪とろゝそばそれとなく御飯出てくる秋彼岸ヒト科ヒトふと鶏頭の脇に立つ階段を濡らして昼が来てゐたりなど。

 

 

 

そらまめのみんな笑つて僧のまへ 奧坂まや

 

そら豆のあのフォルムのことを言っているわけではない。僧、この場合「料理僧」いわゆる典座(てんぞ)の前にあるから「笑っている」ように見えたのだ。なぜか?古来料理を任される典座は、修行見習の新人ではなく、修行を極めた高僧が務める決まりがあるからだ。食材は元をただせば「命」である。そして仏教的世界観の中では、草木虫魚すべてが大日如来の化身、生まれ変わりであり、それゆえ皆「仏性」を持っている。その仏性を持つ食材の命を、無駄なくとことん生かし切るには、食材への感謝と、細心の気配りがいる。新参者の笊(ざる)のような神経では、食材の命をとうてい生かし切ることはできないのだ。磊落な中にも、研ぎ澄まされた神経、高い精神性を持つ高僧なればこそ、食材の命を生かし切ることができる。そら豆が笑っているように見えたのも、典座なら自分の命を預けて惜しくないと思ったからに違いない。包丁を日常的に預かる人は、仮に僧籍に無いとしても、同じような心構えが必要だろう。俳句という自然相手の文芸に携わりながら、食材を只の「もの」扱いして、無駄にしても何ら良心の呵責を感じないのであれば、多分その人の作る俳句も、それなりのものしかできないような気がする。奧坂まや(1950-)には他にかき氷くづしどうでもよかりけり大阪の毛深き暑さ其れを歩む一山の凍死の記録棚にありたんぽぽの絮吹いてをる車掌かな天高しほがらほがらの伊勢うどんことごとく髪に根のある旱かな電線の大河をよぎる良夜かな/など。

 

 

さくらさくらもらふとすればのどぼとけ 黛まどか

 

このひらがな書きの一見優しい字面に騙されてはいけない。この句には秘かに毒が仕込まれている。卒業記念に好きな男の子の学生服のボタンをもらう代わりに、「のどぼとけ」が欲しいだなんて!つまりは「死ね!」ということだ。「のどぼとけ」がもらえるとしたら、彼が死んで荼毘に付された後だからだ。彼女は彼に手痛い失恋をしたに違いない。恋心が一転して憎しみに変わったのだ。なぜか?彼女は最初から彼を愛していなかったからだ。彼の幸せより、自分の幸せが大事だったからだ。他者愛を装った自己愛。本当に彼を愛していれば、自分がその愛の対象に選ばれなかったとしても、遠くから密かに彼の幸せを祈るだろう。自分が逆の立場だったらどうだろう。他に好きな人がいるのに、まったくタイプじゃない男の子に告白されたら、有難迷惑以外の何物でもないだろう。丁重に断るに決まっている。要するに、愛は想像力なのだ。ひらがな書きは、もしかしたら自分本位な「幼稚」なフェイク愛を示唆しているのかもしれない。黛まどか(1962-)には他に蛇衣(きぬ)を脱ぎまつさきに家(うち)に来るシェパードが先に着きたる避暑地かな夜桜やひとつ筵に恋敵春の泥跳んでお使ひ忘れけりまた同じタイプに夢中万愚節水着選ぶいつしか彼の眼となつて東京がじつとしてゐる初景色/など。

 

 

家にゐても見ゆる冬田を見に出づる 相生垣瓜人

 

究極の脱力系といっていい。このあっけらかんとした詠みっぷりはどうだ!ドラマなどどこにもない!自分の、はたまた人間存在の説明のつかない「不可解さ」、そこに彼の関心はある。「なぜ?」と問われても、当の本人にさえ答えられない、「衝動」というものに操られる瞬間。茂木健一郎の本か何かで読んだのだが、脳内では意思に0.3秒先立って運動準備電位が筋肉へ送られ、その発火現象にわずかに遅れて、何かをしようとする意思が生まれるらしい。つまり無意識が意識に先行するのだ。意識的にやっていることが、実は無意識に操られているという、この事実!華厳経のインドラ網、重々帝網の縁起が示唆するように、「全体」が「部分」を規定し、その「部分」が今度は「全体」を規定していく、無限の循環運動がどうもあるようなのだ。「一即多・多即一」のホロニックな世界を、意識とは無関係に人間は只生かされているだけなのかもしれない。「意思」や「理性」より、その時々の「衝動」や「情熱」に衝き動かされ、「即興的」に「数寄」と「風狂」に生きる、そのような人生こそ、もしかしたら一番天意に適った、自然な生き方なのかもしれない。相生垣瓜人(1898-1985)には他に蜈蚣(むかで)死す数多の足も次いで死す青梅を落としし後も屋根に居る先人は必死に春を惜しみけり微塵等も年を迎へて喜遊せり隙間風その数条を熟知せり一団の年賀状にぞ襲はれし邪悪なる梅雨に順ひをれるなり/など。

 

 

 

パンジーや父の死以後の小平和 草間時彦

 

パンジーは、どこにでもある、ごくありふれた花である。時彦の父が存命のうちは、このささやかな平和が望むべくもなかったことが示唆されている。時彦の父は鎌倉市長も務めた地元の名士で、俳人でもあったが、好色な艶福家でもあったらしく、時彦は他の句でそのことを暴露している。政治と色が絡めば、家庭は平穏ではいられない。普通子は、親を美化することはあれ、貶めることをしない。しかし時彦は事実ありのままを、実の両親に対しても容赦しない。人間存在の「真」を、世間体という「配慮」で曇らせることを潔しとしなかったのだ。結核のため学業を断念せざるを得ず、一介のサラリーマンに甘んじた時彦。俳句や料理など趣味にうつつを抜かし、結社の主宰になることなど端から望まなかった時彦の、父とは全く異なる生きざまが、そうさせたに違いない。草間時彦(1920-2003)には他に月曜は銀座で飲む日おぼろかな水洟や仏観るたび銭奪られ味噌汁におとすいやしさ寒卵秋鯖や上司罵るために酔ふ障子貼る母の手さばき妻の敵妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ好色の父の遺せし上布かな老い母は噂の泉柿の秋/など。

 

 

病室に豆撒きて妻帰りけり 石田波郷

 

「鬼は外、福は内」という言葉が、妻の口から病室に居る自分に発せられる。その時の、波郷の胸の内!「もしかして自分は鬼?」という被害妄想さえ湧かせかねない、言外に複雑なふくみを持った「鬼は外!」ではなかったか。稼ぎのない、金食い虫の病人の居ない「内」、「鬼の居ない」そこで福々しく太っていく妻!「感じやすい病人」に対し、健康がゆえに、病人の複雑な心理に対する感度が鈍った、夫を見舞うのがル―ティン化した妻。単純に「今日は節分だし、病気が感染るから子供たちは連れていけないけど、お父さんにもせめて季節ごとの思い出を」とでも思ったのだろうか。「豆まき」を病室でする意義は認めるにしても、あえてそれをする必要はあったのか?意地悪な見方をすれば、「けり」に、病室を後にする時の、妻の「決然」たるサバサバ感が滲み出ていないか?働き手の夫を病気にとられた、健康な妻の心情も複雑なら、一家の大黒柱としての責任を果たせないまま、病の癒えるのをひたすら待つしかない夫の胸の内も複雑だ。ジタバタしたところでどうなるでなし、ここは肚を括って成り行きに任せるしかない。諦めにも似た、両者それぞれの開き直りの境地さえ感じる。撒いた豆を妻はちゃんと拾ったのだろうか?それとも撒きっ放しで帰ったのか?淡々と必要最小限の事実だけを差し出して、あとは読者の想像に委ねるこの手法!幾つもの「読み」を可能にするこの「省略」の効かせ方!つくづく俳句は一篇のショートショートの「要約」、トリガーなのだと思い知らされる。石田波郷(1913-1969)には他にゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下新聞を大きくひらき葡萄食ふうそ寒きラヂオや麺麭を焦がしけりわれら一夜大いに飲めば寒明けぬ芍薬や枕の下の金減りゆく秋の暮溲罎(しびん)泉のこゑをなす日々名曲南瓜ばかりを食はさるるなど。

 

 

放屁蟲エホバは善と観たまへり 川端茅舎

 

「エホバ」というのは聖書に出てくる造物主の名前。神の子・イエス・キリストが「我が神、我が父」と呼んだ方。よく知られた「ハレルヤ」は「ヤハ(エホバ)を誉め讃えよ」という意味だが、どれほどの人がそれを識って使っているだろう。「放屁蟲」俗にいう「へっこき虫」は、ニンゲンにとってイヤな存在だ。その臭いはまさに鼻つまみもので、いちど着いたら容易にとれない。人間の「快・不快」の都合を優先した価値基準に当てはめれば、断然「不都合」=「悪」ということになる。「善・悪」は多分に「ご都合主義」である。「自分にとって」都合が良ければ「善」、悪ければ「悪」となる。だから、当然人によって、また同じ人でも事と次第によっては「善悪」の基準が微妙に変わる。なのに、人は「自分の善悪」の基準を絶対視し、それを他の人や他国に押し付けて、無用な争いを繰り返してきた。その人間の愚かな争いに、茅舎も呆れていたに違いない。「造物主の観点」から見てみたら、物事が違って見えるよ、と言っているようだ。自分にとって都合の悪い存在や物事も、「長いスパンで物事を見ておられる」神の観点から見たら、結果的にはその人にとって有益だから存在し、起きたのかもしれない。「神の目」で物事が見れるようになれば、禅の白隠のように、出来事や物事の善し悪しに一喜一憂するのでなく、すべてを静観し、受け容れる「全肯定」の境地になれるだろう。不満の代わりに、感謝が取って代わり、より幸福な人生が送れるようになるだろう。キリストが十字架にかかる前日「どうかこの苦難の盃を私から取り除いてください。しかし私の願う通りにではなく、あなた(神)の願う通りに成りますように」と祈ったのは、「どんなことが起きても、すべて受け容れます」「起きること、それがどんなことであれ、私にとっても、すべての人にとっても、それが最善であることを私は識っています」という、神への「全幅の信頼」を表明する祈りだった!川端茅舎(1897-1941)には他に伽羅蕗の滅法辛き御寺かなまた微熱つくつく法師もう黙れ桜鯛かなしき目玉くはれけり蟻地獄見て光陰をすごしけり畑大根皆肩出して月浴びぬ春泥に子等のちんぽこならびけり暖かや飴の中から桃太郎椿道奇麗に昼もくらきかななど。

 

 

原爆も種無し葡萄も人の智慧 石塚友二

 

「原爆」と「種なし葡萄」を並べるなんて!この「発想」が並じゃない。そしてその両者を結んでいる「同じ」が「人の智慧」だという、この大掴みで大胆な断定!思わず「原爆がどうして智慧?」と突っ込みたくなる。なぜなら「智慧」というのは、知識を「有益」なかたちで応用することだからだ。「知恵」とも表記するように、それは知識を「恵」となるような形で活用することに他ならない。一瞬で人間を大量殺戮する兵器開発に、当時の名だたる物理学者がその知識を結集し、応用したことをもって「智慧」と言われても、被害をこうむった側はとても頷けるものではない。原爆を投下したアメリカに言わせれば、それで戦争が終わるのが早まったのだから、これも一種の「智慧」だと言い張るだろう。では、この「智慧」を『般若心経』の「智慧」=「般若波羅蜜」と捉えたらどうか。「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄」ならば、「種なし葡萄」を「浄」とし、原爆を「垢」とする、デカルト的二分法は当てはまらない。どちらも「智慧」という大海から生まれた異なる「波」に過ぎないことになる。親鸞の言うように「煩悩即菩提」。「苦」が「さとり」の契機になるのであれば、その「苦」を賜ることは「恵」以外の何ものでもない。わずか17音にこれだけのメッセージを込めた、石塚友二。畏るべし!である。石塚友二(1906-1986)には他に大晦日御免とばかり早寝せる遣り過す土用鰻といふものもストーブにビール天国疑はず人気なく火気なき家を俄破と出づ二重廻し着て蕎麦啜る己が家笛吹いて落第坊主暇ありらあめんのひとひら肉の冬しんしん百方に借あるごとし秋の暮など。

 

 

 

香水や腋も隠さぬをんなの世 石川桂郎

ここには明らかに「をとこの世」を前提にした意識がある。「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」、という不文律、目に見えない自縄自縛、他縄他縛が限界値を超え、内発的に解け初めた世、男論理が肩で風切って歩いていた大路を、目覚めた新しい女たちが闊歩する、新しい世の出現。「なぜ女だけが腋を隠さなくちゃいけないの?」、新しい女たちは、「おかしい」と思うことを「おかしい」と言える女たちだ。男たちは「女は黙ってろ」と、女を人間として二流扱いし、巧妙に女の口封じをしてきた。女たちも「はしたない女」と見られたくないという、男の眼や評価を意識した、いわゆる男の歓心を買いたいという下心のある「自意識」に自縛され、よく考えれば「おかしい」男の論理を、のさばるだけ、のさばらせてきた。それをいいことに男たちは、戦争という、勝てば男の沽券が満たされる愚行に、血道を上げてきた。その結果が敗戦である。半藤一利の著作などを読むと、平和ボケじゃないけど、当時の指導的「エリート」がいかに頭が悪く、男性論理ボケしていたかよく解る。桂郎は、歪みに歪んだ男性論理優位の世の中が、女性論理優位の世の中に軌道修正していくのを、果たしてどんな思いで眺めていたのだろう。苦々しく思っていたのか、それとも歓迎していたのだろうか。読売文学賞を受賞した『俳人風狂列伝』を書き、自らも酒食と放言を好む風狂の人であった石川桂郎(1909-1975)には他に/炊飯器噴き鳴りやむも四月馬鹿/黒々とひとは雨具を桜桃忌/一つづつ分けて粽のわれになし/昼蛙どの畦のどこ曲ろうか/買初にかふや七色唐辛子/ごうごうと風呂沸く降誕祭前夜/裏がへる亀思ふべし鳴けるなり/鳥交るしきりと喉の乾く日ぞ/など。

 

 

大寒の街に無数の拳ゆく 西東三鬼

 

「人」が行くところ、必ず「手」も付いていく。手は切っても切れない、人体の一部だからだ。でもここでは敢えて「拳」と、手の特殊な形、握った形が示されている。ウィキペディアによると「拳」は「最も原始的な闘争手段、武器の一つであり、固く握られた拳は抵抗の意志、及びその象徴である」とある。寒さが最も厳しい「大寒」。これも実際の景とともに、労働者階級の厳しい現実の「象徴」だろう。資本家ばかりがいい目を見る搾取の構造、それに異を唱える労働者たちの、デモやストライキによる意思表示。こんな景が見えてきた。文字通りの実景に重ねて、デモと言わなくてもデモと解るように、季語「大寒」(時候)と、とり合わせの「拳」(人事)に、「ふくみ」と「象徴性」を持たせた「二重構造」の句。西東三鬼(1900-1962)には他にひげを剃り百足を殺し外出す犬の蚤寒き砂丘に跳び出せり大寒や転びて諸手つく悲しさ蓮掘りが手もておのれの脚を抜く道化師や大いに笑ふ馬より落ち垂れ髪に雪をちりばめ卒業す薄氷の裏を舐めては金魚沈む雨の中雲雀ぶるぶる昇天すなど。

 

 

 

弁当を分けぬ友情雲に鳥 清水哲男

「友情」というからには弁当を「分ける」のが「普通」だろう。それに何の疑問も持たないのが「凡人の発想」というものだ。独立自尊を重んじる個は、相手の好みを尊重するが故に、敢えて「分けない」。不親切なようで、親切、冷たいようで、温かい、相手の好意や甘心を買おうという下心が微塵もない、本物の気遣いが生む友情とは、こうなのだ。それを象徴しているのが「雲に鳥」という「春」の季語。この季語は、秋に敢えてこれから寒くなる日本へわざわざ越冬しにきた鳥が、その寒さが消える春に、再び寒さを求めて、シベリヤなど北方へ渡るさまをとらえたもの。つまり「温かさ嫌いの、寒さ好き」、ニンゲンで言えば「夏の暑さが苦手、冬の寒いのは任しといて」、そういう種類の鳥を対象とした季語なのだ。そして、月並み俳句に満足できない俳人も、実は「なあなあ、まあまあ」な生ぬるさが苦手な、独立不羈の精神に富んだ種類の人間なのだということを、この季語は匂わせている。虚子と碧梧桐、秋櫻子のように、時に妥協知らずが友情を反目に変えたとしても、こういう本物の友情しか育たない精神風土が、俳句にはあるのかもしれない。清水哲男(1938-)には他に/人生に大寒(おおさむ)小寒という睾丸/愛されず冬の駱駝を見て帰る/大晦日犬が犬の尾垂れている/女来てずんと寝ちまう文化の日/田の母よぼくはじゃがいもを煮ています/男なり酒にはなみず垂れるなり/山笑う生活保護を受けている/など。

 

 

春灯の衣桁に何もなかりけり 清崎敏郎

 

またも出ました「何もなかりけり」。「ない」を詠んで読者に肩透かしを食らわせるのが、歌人、俳人共に大好きみたいで、この先鞭をつけたのが、かの藤原定家。新古今で「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」とやったから、そこから火が着いた。「直球」勝負だけじゃ能がないとばかり、我も我もとやりだしたのは、歌の出来不出来によって、己がオツムのほどを否応なく値踏みされ、好きな相手の心をゲットできるかどうかが掛かっていたから。なんとしてでも「おぬしやるな」「寝てもいいかも」と思わせるには、技巧の限りを尽くさざるを得ない、というのが当時の恋愛事情だった。この句もほのかに恋心が匂う。なにせ、春・灯・衣桁の三点セット。脱いだものをかける相手がいない、ととってもいいし、ことが済んで着衣の後、ととってもいい。読者によって、如何様にもとれるように表現に「ふくみ」を持たせる、これも「技」中の「技」。清崎敏郎(1922-1999)には他に梅が散るはうれんそうの畑かな口まげしそれがあくびや蝶の昼仰ぎたるところにありし返り花山門を掘り出してある深雪かな蛍火と水に映れる蛍火と一枚の大苗代田歪みをりかなかなのかなかなとなく夕かな頼りなくあれど頼りの案山子かな/など。

 

 

 

四戸あり住むは二戸のみ時鳥 森田 峠

 

「只事俳句」の典型のような句。こんなほとんど「無意味」なことも、俳句の種になるというか、してしまうというか。人がハナから句にしようなどと思わない、どうでもいいこと、どうでもいいもの、それに敢えて目を付け、すかさず五七五にしてしまう。この「なんでも句にしてやろう精神」がすごい!俳句というカミサマは、「新しもの好き」「珍しもの好き」の、恐ろしいくらいそれに餓えている「餓鬼」のようなカミサマ。だから、供物の俳句が、誰かが前に持ってきたものだったり、ちょっとでも活きが下がったりしてると、問答無用「出直し!」と容赦なく一喝一蹴する。このカミサマのご機嫌をとるのは、生なかではできない。この句には、さすがの俳句大明神も「ニヤリ」としたのでは。取り合わせの「時鳥」が、四戸が二戸になってしまった時間経過を示唆して、ニクイ!森田峠(1924-2013)には他に安宿とあなどるなかれ桜鯛箱河豚の鰭は東西南北に肛門を見せて鮟鱇ならびけり羊飼ぞろぞろしつゝ聖夜劇わが過去に角帽ありてスキーなし生徒らに知られたくなし負真綿鴨すべて東へ泳ぐ何かあるうしろにも眼がある教師日向ぼこ/など。

 

 

 

だまりこくるための夜食となりにけり 上田五千石

 

、ということは直前まで喋っていたということ。喋るためには相手がいるから、夕飯からかなり間が開くほど長い時間、二人以上何人かで時を忘れて喋っていたのだろう。当然夜更け、午前0時ころか。沈黙とは無縁だった時間が、突然静寂を取り戻す。その「あっ」という「気づき」、「発見」がこの句の眼目。人の口は一つだから、食べることと喋ることを同時にするのは、これでなかなか難しい。「夜食」の「腹を満たす」だけではない、「沈黙」を喚び込むという「新たな一面」を捉えて鮮やか。上田五千石(1933-1997)には他に渡り鳥みるみるわれの小さくなり一万尺下りきて盆の町通る春潮に巌は浮沈を愉しめりてふてふのひらがなとびに水の昼白扇のゆゑの翳りをひろげたるふだん着の俳句大好き茄子の花さびしさのじだらくにゐる春の風邪など。

 

 

 

魂にゆりおこされて昼寝覚め 上野 泰

 

ほんとうに不思議だ。いったい何が人を眠りから目覚めさせるのか?夜中に尿意や寒さに起こされる、というのも不思議だ。まるで「このままだとオネショしてしまうよ」「このままだと風邪を引いてしまうよ」と、誰かが教えてくれているようだ。昼寝は特に「はっ」として起きることが多い。「今起きないと、仕事に差し支えるよ」とか、「今起きないと、約束の時間に遅れるよ」とか、誰か有能な秘書が頃合いをみて起こしてくれているようだ。作者はそれを「魂がゆりおこす」のだ、と感得した。もう一人の自分が、眠らずに見張っているのだと。普段「ふしぎ」と思っていることをそのまま言葉にしてみる。子どもが「お母さん、どうしてお空は青いの?」と訊く、あの率直さで。そして自分なりの推理を、独断でもいいから言葉にしてみる。どうせ正解などないのだ。「ふしぎ」と「詩」は、きっと同じ根っこから出た「枝」と「葉っぱ」、そんな気がする。上野泰(1918-1973)には他に干足袋の天駆けらんとしてゐたり美しく反りつつ鮎の釣られたる打水の流るる先の生きてをり考へを針にひつかけ毛糸編む椿落つかたづをのんで他の椿末の子の今の悲しみ金魚の死第三の志望なりしが入学す学帽を耳に支へて入学すなど。

 

 

蝿生れ早や遁走の翅使ふ 秋元不死男

 

生きていくうえで一番大切な器官は何だろう。人間ならさしづめ「心臓」だろう。蠅には血管も血液もなく、背中に心臓の代わりをするポンプ=背脈管があり、体の隙間に体液(血リンパ)を流している。脚や翅の付け根にも、小さなポンプの働きをする脈拍器官があり、やはり体液を送りだしている。外敵のほとんどが自分より強く、大きい蠅は、短い一生の大半を「逃げ」に費やさざるを得ない。蠅の翅は、だから人間の心臓に匹敵する絶対不可欠な器官ともいえる。また同じ理由で、蠅は時間分解能力が人間の10倍ある。人間の1秒は、彼らの1/10秒で、つまりは逃げ足がめっぽう速いのだ。蠅を捕まえようとしたことのある人なら、その逃げ足の速さに、人間の一撃がしばしば追いつかないことを知っているだろう。逃げる能力は、蠅にとって文字通り死活問題。生まれてすぐの蠅でさえ、翅を使うことを知っている、というこの秋元の「発見」は、だから単なる発見ではなく、蠅の一番大事な「本質を突いた発見」なのだ。「蠅」「早や」「翅」と、ha音を重ねることでスピード感、蠅の逃げ足の速さを暗示していることも、見逃せない。秋元不死男(1901-1977)には他に春惜しむ白鳥(スワン)の如き溲瓶持ち幸ながら青年の尻菖蒲湯にライターの火のポポポポと滝涸るるすみれ踏みしなやかに行く牛の足富士爽やか妻と墓地買ふ誕生日吸殻を炎天の影の手が拾ふ火だるまの秋刀魚を妻が食はせけりなど。

 

 

 

雪晴や猫舌にして大男 小澤 實

 

小澤には「人を喰った」ような句が結構あって、小林恭二の『俳句という遊び』では、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、田中裕明、岸本尚毅らと句座を共にする中、続く第二弾『俳句という愉しみ』でも、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、大木あまり、岸本尚毅に加え、歌人岡井隆など、錚々たる先輩俳人も参戦する中、一人若手ながら大健闘していた記憶がある。小澤は連句にも通じていて、何で読んだか忘れたが(蓄膿で喉を詰まらせ窒息死した車谷長吉の連れ合い、詩人で俳人の高橋順子の本だったか?もしかして連句もやる組長の本?)、連句の「決まり」を連句初心者に噛んで含めるように説明していたのを読んだことがある。その小澤の句である。「意外性」、「虚を突く」、「読者の期待を裏切る」、「文脈の順接を断固拒否する」、「はぐらかし」、「かたすかし」、「おっとっと」、これらに俳句の命を賭けていると言ってもいい。「雪」の「白」に対して「舌」の「赤」、「猫舌」の「小」に対して「大男」の「大」、「雪」の「冷」に対して「猫舌」の「熱」、これでもかというくらいの「対比」が、この10文字しかない短い一句に入っている。しかも、技巧派にもかかわらず、その技巧を、技巧と感じさせない。そこが小澤の凄いところ!小澤實(1956-)には他に噴井愛しぬ噴井に眼鏡落すまでくわゐ煮てくるるといふに煮てくれず「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと露の玉考へてをりふるへをり夏芝居監持某出てすぐ死窓あけば家よろこびぬ秋の雲子燕のこぼれむばかりこばれざる/など。

 

 

 

シャボン玉につつまれてわが息の浮く 篠原 梵

 

シャボン玉を見て、こんな風にとらえるのが「詩人の感性」なんだよ、と教えてくれているようだ。詩人は、シャボン玉の「外づら」ではなく、「内づら」が自然に見えてしまう眼を持っている。凡人はシャボン玉の外づらを詠むことに興を覚えるが、詩人はそんなことには興が湧かない。みんなが右なら、僕は左、どちらかというと「みんなと同じ」が苦手だ。みんなと居ても、独りな感じ。多分誰かの承認も必要としないから、誰かに媚びることもない。自分の世界をしっかり持って、それを誰にも侵させない。彼・彼女にとって自分が他の人と「違っている」ことは「当たり前」、自明のことだ。凡人は、自分が他の人と「違う」ことを、必要以上に「恐れる」。そんな臆病な眼を持つ人には、芭蕉の言う「物の見えたる光」は捉まえられない。類想句を作っては、得々としている、それが凡人だ。篠原梵(1910-1975)には他に蟻の列しづかに蝶をうかべたるオレンヂエードのコツプはかなし鼻を容れ葉桜の中の無数の空さわぐ子ら寝しかば妻へのみやげ枇杷を出す北極星またたく私はまたたかぬ打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり木蔭より幾人も出てバスに乗るなど。

 

 

 

向日葵の蕊を見るとき海消えし 芝不器男

 

こういうことはよくある。言われてみると「なるほどなあ」と思う。何か(対象)を注視すると、それ以外(背景)は見えなくなってしまうという現象。誰もが経験しているのに、それを敢えて言葉にしてみることはめったにしない。そこを不器男は言葉にした。芝不器男は姉の誘いで二十歳で句作を始め、二十七歳を待たず病のため早逝。生涯残した句はわずか175句。『ホトトギス』に投句し、虚子に激賞されている。主治医は俳人の横山白虹だった。不器男は本名。父親が論語の「君子不器」(君子は器ならず=人間は一つの器にとどまらないで、全人的完成をめざすべきという意味)から命名。芝不器男(1903-1930)には他にぬばたまの寝屋かいまみぬ嫁が君さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな人入つて門のこりたる暮春かな枯木宿はたして犬に吠えられし一片のパセリ掃かるゝ暖炉かな落栗やなにかと言へばすぐ谺下萌のいたく踏まれて御開帳/など。

 

 

 

人間の海鼠となりて冬籠る 寺田寅彦

 

「人間の海鼠」だなんて!なんて傑作な「比喩」だろう。「海鼠」も冬の季語だが、この場合「比喩」なので何の問題もない。着膨れて、ゴロゴロ炬燵に寝っ転がっている「人間」の姿が彷彿とするではないか!昔は、暖房もせいぜい火鉢か炬燵(しかも練炭か炭団‐たどん)。暖をとるには、着膨れるしかなかった。海鼠といえば、江戸中期の俳人で蕪村の高弟の黒柳召波の句「憂きことを海月に語る海鼠かな」が有名だが、当然寅彦もこの句は知っていただろう。行きたいところへ自由にふらふら行ける海月に、海底を這いずり廻るしかない己が宿命を嘆く海鼠。寅彦は生涯三度結婚し、そのうち二度は妻に先立たれている。自身も五七歳で転移性骨腫瘍で早逝している。「憂きこと」を多分に抱えていただろうことは、容易に想像できる。物理学者・寅彦は漱石と昵懇であり、小説『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルにもなった。寺田寅彦(1978-1935)には他に繕はぬ垣の穴より初嵐五月雨の町掘りかへす工事かな傾城の疱瘡うゑる日永かな仏壇の障子煤けて水仙花県庁と市役所と並ぶ柳かなあらぬ方へ迷ひ入りけり墓参禿山を師走の町へ下りけり唐辛子糸瓜の国を忘るるな足の出る夜着の裾より初嵐/など。

 

 

 

わらんべの洟(はな)も若葉を映しけり 室生犀星

「洟」に映った「若葉」、その「発見」を句にした。なんという「発見」だろう!見つけようとして見つけた「発見」ではなく、偶然見つけてしまった「発見」。こういう「発見」に巡り合えるのも、作者が日ごろから「感性」を研ぎ澄ましているからだろう。「洟」という通常「きたない」と看做されるものと、「若葉」という清新なものの「とり合わせ」。「人事」と「植物」の「とり合わせ」。「わらんべ」と「若葉」の「ひびきあい」。「室生犀星、やるじゃない!」と思う。室生犀星(1889-1962)には他に/乳吐いてたんぽぽの茎折れにけり/春の山らくだのごとくならびけり/少女らのむらがる芝生萌えにけり/鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな/新年の山のあなたはみやこなる/青梅の臀うつくしくそろひけり/炎天や瓦をすべる兜蟲/など。

 

曼珠沙華消えたる茎のならびけり 後藤夜半

 

曼珠沙華なら「花」を詠うのが当然、それに何の疑問も持たない、そういう感性自体が「凡人」、月並みなんだよ、と暗に夜半に窘(たしな)められているようだ。俳句を作っているから、俳人なのではない。この、常識に何の疑問も持たず、無考えに大勢に迎合してしまう、それとは真逆の視点、これを持っているから俳人なのだ。「発想」は、俳句の成否を決める大事な要(かなめ)。いかにその他大勢が「見ようとしない」ところを見、見たとしても「目を付けない」ところに目を付けるか、そこが勝負だ。後藤夜半(1895-1976)には他に香水やまぬがれがたく老けたまひ探梅のこころもとなき人数かなさし招く団扇の情にしたがひぬてのひらにのせてくださる柏餅着ぶくれしわが生涯に到り着く大阪はこのへん柳散るところクリスマスカード消印までも読む/など。

 

 

 

峯雲の贅肉ロダンなら削る 山口誓子

 

「天文」と「人事」の「とり合わせ」。「峯雲」のあの白い量感から、脂肪=「贅肉」を連想し、「贅肉」から、なんと!彫刻家「ロダン」へ跳ぶ、この「ジャンプ力」!「二物衝撃」の「二物」の組み合わせ次第では、こんな風に何とも言えない「おかしみ」を醸すこともできるという、見本のような句。料理と同じく、俳句は、言葉の化学であることを再認識させてくれる。俳句は、言葉を口径17mmのフラスコで混ぜ合わせ、その反応を楽しむ遊びなのだ。雲を見て、こんなことを連想する人がいるという愉快!「イマジネーション」という「目に見えない現実」を、言葉で「見える化」してみると、ニンゲンの、とんでもなくアナーキーな一面が露わになる。「ヘン」な自分もいていい、と思える。目に見える世界の、暗黙の縛りが緩くなる。息がしやすくなる。心が解放される。俳人の多くが、堂々と変人であることを隠さないのは、このイマジネーションの世界の住民だからだ!山口誓子(1901-1994)には他に日本がここに集る初詣冬河に新聞全紙浸り浮く泳ぎより歩行に移るその境美しき距離白鷺が蝶に見ゆ頭なき鰤が路上に血を流すこの岸にわが彳(た)つかぎり蟹ひそむ祭あはれ奇術をとめに恋ひ焦れ遠足の女教師の手に触れたがる/など。

 

 

 

みちのくの鮭は醜し吾もみちのく 山口青邨

 

青邨は岩手の人。醜い鮭とは、南部鼻曲鮭のこと。「吾もみちのく」で、青邨は何を言おうとしたのか?「吾もみちのく」=「私も南部鼻曲鮭のように醜い」と言おうとしたのか?それとも「私も鼻が曲がっている」と言おうとしたのか?しかし写真を見ると、そう謙遜するほど醜男でもないし、鼻も曲がってはいない。それだけとは思えない何かが、この「吾もみちのく」には隠れている。俳句の詩は多義的だ。単純に「私もみちのく(生れ)ですよ」ととったとしても、「みちのく」の一語が示唆するものは単純ではない。「みちのく」は「陸奥」「道奥」と書くが、「みち」には「未知」が隠れている。青邨は「自分の何かが曲がり、何かが醜い」と言おうとしたともとれるし、「私という存在は、行けば行くほど、奥が見えない道のようだ」ともとれるし、「自分でありながら、自分のことを意外と知らない、自分こそが謎、自分こそが未知、そういう存在、それが私なんですよ」ともとれる。このように多義的に読めるように作るのが、俳句の「詩」だ。山口青邨(1892-1988)には他にある日妻ぽとんと沈め水中花鮎の宿おあいそよくて飯遅しはなやかに沖を流るる落椿月光が革手袋に来て触るる鵞鳥三羽逆立一人卒業すある本の海賊版や読初げらげらと笑ふ橇より落ちころげゼンマイは椅子のはらわた黴の宿/など。

 

 

人恋ひてかなしきときを昼寝かな 高柳重信

 

体は正直。嬉しかろうが、悲しかろうが、眠くなったら、寝る。高柳重信は、娘の蕗子の話によると、弁護士を目指したぐらい「正直」を大事にした人だったらしい。心にわずかな疚しさを抱えることさえ、嫌ったという。虚言癖のあった妻とは離婚している。「こころ」と「からだ」。自分のものでありながら、自分の思い通りにならないもの。それが私たちの「こころ」と「からだ」である。そのことを、私たちは本当に認識しているだろうか?自分さえ、自分の思い通りにならないのに、他者を自分の思い通りにしようとするなんて!そんなこと、「できない相談」に決まってる。なのに、相手が自分の思い通りに動かないと、それをあたかも重大な罪であるかのように責め立てる人の、なんと多いことか!だから相手が、自分の思い通りに動いてくれた時は、感謝以外の何ものでもない!結核を患い、弁護士になることを断念した高柳は、自分の体が自分の思いどおりにならないことを、経験からイヤというほど知っていた。彼は娘の蕗子の目から見て、本当に優しい人だったという。高柳重信(1923-1983)には他にマダムX美しく病む春の風邪夜霧ああそこより「ねえ」と歌謡曲夜昼夜と九度の熱でて聴く野分夕風 絶交 運河・ガレージ 十九の春小松宮殿下の銅像近き桜かな木の葉髪無職の名刺刷り上がる松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな/など。

 

 

 

あたたかにいつかひとりとなるふたり 黒田杏子

 

「暖かに何時か一人と成る二人」。同じ句を漢字表記するとこうなる。漢字だから直線だらけ。堅い。ゴツゴツした感じ。痩せさらばえた骸骨のよう。血の通わない冷えた金属のよう。「あたたか」さは微塵も感じられない。では、すべてひらがな書きにしたほうはどうか。ひらがなは曲線が多い。丸みを感じる。柔らかい。流れる感じ。ふっくら太って、にっこり笑ったお母さんの印象。字面の印象が断然「あたたか」そのものに。字面は大事。この句を読むと、いつも涙が涙腺のところまで昇ってきて、涙目になる。「あたたか」で、よかった、と思う。「つめたく」なくて、よかったと思う。黒田杏子(1938-)には他にガンジスに身を沈めたる初日かな夏終る柩に睡る大男十二支みな闇に逃げこむ走馬灯子をもたぬをとことをんな毛蟲焼く暗室の男のために秋刀魚焼く梅干して誰も訪ねて来ない家狐火をみて命日を遊びけり長命無欲無名往生白銀河/など。

 

 

 

初嵐して人の機嫌はとれません 三橋鷹女

 

「人の機嫌はとれません」、鷹女のお手柄は、句の中に「話し言葉」を持ち込んだこと。代表句の多くに「話し言葉」が顔を出す。人の顔色を窺い、大事なのは、自分の気持ちより、相手の気持ち。クレームのつけ入る隙を作らないように、絶えずピリピリと相手の発する空気を読み、そんなにまでして気を遣う割には、結局自分が嫌な思いをしないための、エゴがなせる巧妙な自己保身。だから、相手には、その恩着せがましい自己犠牲が、なんとも偽善めいて気持ち悪い。結果、有難がられるどころか、ますます嫌がられ、気に入られない。お気の毒、としか言いようがないが、そういう不器用な生き方しかできない人は、確かにいる。鷹女は真逆。人の機嫌より、自分の機嫌のほうが大事。そのためだったら、喧嘩も辞さない。多分B型。「初嵐」はそういう不穏も示唆している。「我儘だとか、自分勝手だとか、言いたい奴には言わせておきなさい!誰が何といっても、私は私が一番大事。自分を大事にできなくて、いったい誰を大事にできる?」。鷹女の啖呵が聞こえてくるようだ。男性はもちろん女性も、俳人には、こういう好き嫌いをはっきり言う、人の顔色など窺う気などさらさらない、「私は私」と、誰憚らず言える、肚の据わった人が、圧倒的に多い。そして、どちらかというと、こういうタイプが大成しているような気がする。三橋鷹女(1899-1972)には他にあたたかい雨ですえんま蟋蟀ですつはぶきはだんまりの花嫌ひな花ひるがほに電流かよひゐはせぬかみみづくが両眼抜きに来る刻かみんな夢雪割草が咲いたのね夏瘦せて嫌ひなものは嫌ひなり風鈴の音が眼帯にひびくのよ/など。

 

 

 

あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄

 

これは言わずと知れた、広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を本歌取りしたパロディ。「人間はそう易々とは変われねえよ」、と「理想と現実」の現実を、身も蓋もなく言ってみたというところか。広島に原爆が落ちたのは八月六日。その三日後には長崎に原爆が落ちた。八月は歳時記では秋である。戦争が百害あって一利だにない、愚の愚の骨頂であることは、嫌というほど知っているはずの私たち。なのに地球上で戦争の無かった日はほんの数えるほど。相変わらず、地球のあちこちでドンパチ、ドンパチやらずにおれないのが、霊長類ヒトという、「学習能力がありながら、失敗から敢えて学ぼうとしない」種である。愚かすぎて、あきれ果て、しまいには笑って、「ほんと、バカだよな」と、バカなニンゲンに愛おしささえ感じているのが、この句のいいところ。オレも紛れなくその一人なんだよな、という、自己否定と自己肯定が複雑に入り組み、苦笑いする作者がそこに居る。人口に膾炙されたキャッチフレーズを、こんな風にパロデってみせるのも、俳句の作り方の王道の一つ。三橋敏雄(1920-2001)には他に鳥雲に美人動けばわれ動く齢のみ自己新記録冬に入る已むを得ず日本に住みて梅雨深し家に居る標札のわれ夏休われ思はざるときも我あり籠枕大正九年以来われ在り雲に鳥はなびらの小皺尊し冬ざくら土臭し生きのびがてらねむる蛇/など。

 

 

 

先生が瓜盗人でおはせしか 高浜虚子

このどこが「詩」?「先生」と「瓜盗人」の「意外な結びつき」、それが「詩」。きわめて「詩らしくない」形をとっているが、紛れもなく「詩の定義」の範疇にある。今井 聖は「通念を忌避するという『詩』本来の在り方」「通念や先入観や予定調和とはほど遠いところに『詩』が存することは自明のこと」といい、西脇順三郎も「詩の本質は、二つの無関係なものを結びつけることにある」、と述べている。そういう意味で、この虚子の句は、「らしく」はないが、紛れもなく「詩」だと言えよう。刑事らしくないが、紛れもなく刑事である、医者らしくないが、紛れもなく医者だ、という人はゴマンといる。それと同じだ。刑事らしくないから、刑事じゃない、医者らしくないから、医者じゃない、というのでは、あまりにも偏狭だろう。それと同じように「詩らしくないから、詩じゃない」というのも短絡で、偏狭だろう。もしかしたら「詩らしい詩」しか「詩」として認めない趨勢があり、その「詩」に対する「偏狭」を払拭するために、虚子は敢えてこのような句を作ったのかもしれない。高浜虚子(1874-1959)には他に/我を指す人の扇をにくみけり/蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな/葡萄の種吐き出して事を決しけり/川を見るバナナの皮は手より落ち/我を見て舌を出したる大蜥蜴/よろよろと棹がのぼりて柿挟む/不精にて年賀を略す他意あらず/など。

 

 

 

黄泉路にて誕生石を拾ひけり 高屋窓秋

 

「黄泉」は言わずと知れた死の代名詞、それに「誕生」という「対極」のものをとり合わせた。高校生・寺山修司の詩「懐かしのわが家」に、「ぼくは不完全な死体として生まれ 何十年かかゝって 完全な死体となるのである」、とあるように、人生は、言い換えれば、「死」というゴールを目指して歩く「黄泉路」の途上。句意は単純、「道で紫水晶を拾った」(窓秋は二月生れだから、誕生石は紫水晶)、ただそれだけ(ちなみに、「黄」色と「紫」は、赤に対する緑のように、補色関係でもある)。それを、「どう書くか」。窓秋の「工夫」は、「道」を「黄泉路」に、「紫水晶」(比較的安価で手に入りやすいので、ダイヤはなかなか落ちていないだろうが、紫水晶なら落ちていそうである)を「誕生石」に「置き換え」たところ。「道で紫水晶を拾った」、それだけでは何の深みもない、ただの「報告」だが、「黄泉路」と「誕生石」に「置き換え」ただけで、ぐっと深みが増した。これが「詩」を生む方法、「技術」なのだ!「何を書くかではなく、どう書くか」、それに腐心するのが、俳人であり、詩人という人種である。高屋窓秋(1910-1999)には他に木の家のさて木枯らしを聞きませう石の家にぼろんとごつんと冬が来て蝶ひとつ人馬は消えてしまひけり血を垂れて鳥の骨ゆくなかぞらに降る雪が川の中にもふり昏れぬ赤き馬車峠で荷物捨てにけり白鳥は悲しからんに黒鳥もなど。

 

 

首出して夫婦雪夜を眠りをり 江里昭彦

 

平井照敏著『俳句開眼』237、8pを要約するとこうである。「詩人も俳人も、大事なのは、何を書くかではなく、どのように書くかということ」「主題より技術が大事」「単なる言葉の巧みな斡旋だけにとどまっていては、次元の低い月並調をくりかえすだけ」「技術は、発想時のおぼろげな主題をよりはっきりと高次の次元に浮き上がらせるための、ことばの未知の力の開示の方法である」。この句はまさにこの方法の実践から生まれた句。内容は取り立てて句にしたくなるような「感動的」な「特殊状況」ではない。ごく日常的な景である。敢えて何が「特殊」かといえば「首出して」という「当たり前」を「当たり前ではない」のではないか?と「ふと」思ったことからの「発見」、それをわざわざ「言葉にして見せた」ことだろう。なぜなら雪の冷える夜は、頭を布団の中にすっぽり入れて眠ることも多いからだ。やってみれば判るが、このほうが断然あったかい。頭を出して寝ているということは、従って雪は降っているけれども、室内は暖房のせいもあってさほど寒くない、ということを示唆している。こういう微妙且つちょっとしたところに感性のアンテナがピピッと反応する、それが詩人、俳人なのだ。そして、その些細な「発見」を句の冒頭にバーンともってくる、これが「技術」だ!江里昭彦(1950-)には他にやんわりと月が見てゐる歯の治療盛装し下着はつけず観る桜夢に浮く身風呂にしずむ身四月尽富士はいつも富士削りとる風のなか月光はあまねし家庭内離婚枇杷の肛門(アヌス)すすり家族ら霊迎夕焼や空のどこかに挽肉機/など。

 

大胆といふ美しき海水着 岸 風三楼

 

「大胆」=「美しい」、この感性が並ではない。大胆というからには、露出の目だって大きい水着だろう。ということは、生な人体が見えれば、見えるほど美しい、と言っていることになる。これは、生な人体そのものが美しい、と言っているのと、ほとんど変わらない。自然の造形美としての人体。それを覆い隠そうとするのは、ある意味自然に対する忌避・冒涜に等しい。江戸の女たちは肌を露出することを恥ずかしいとは感じなかった。夏の暑い盛りには絽の透けた生地で仕立てた着物で、乳房が透けることもいとわず、涼しく快適に過ごせる実を優先した。海外には人体の露出を恥と捉える感覚は、イスラム圏を除いて少ない印象だが、ここ日本において、何時から人体の露出を恥とする感覚が生まれたのだろう。人体という自然の造形美が誇りを取り戻すのと、人間がより自然に近い生き方や暮らしを取り戻すこととは、同義なような気がする。岸風三楼(1910-1982)には他に一歩だに退くを許さず阿波踊月明のいづくか悪事なしをらむ躬を離れすなはちブーツ倒れけりナイターも終り無聊の夜となりぬ鉄板を踏めばごぼんと秋の暮キャベツ抱きをれど幸福とも見えず鶏頭の枯れたるといへ立てりけりなど。

 

 

 

春の日や手にして掃かぬ竹箒 岸本尚毅

 

箒は「掃くもの」という「固定観念」、それを「掃かぬ」という「否定」の一言で覆してみせる、この軽やかで、さりげない技!「年用意手にして写さざるカメラ」(比々き)こんなふうにこの技は、私のような素人にも簡単に使える。なのに「箒は掃くもの」「カメラは写すもの」という「固定観念」に永く奴隷のように縛られてきたせいか、慣性の法則さながら、温湯に浸かりっぱなしで、出てこようとしない人の、なんと多いことか。こんないい例があるのに、なんとも、もったいない。この技を使うだけで、新味を獲得する景は無限にあるだろうに。岸本尚毅(1961-)には他にぼろ市の大きな月を誰も見ず酔ふ人を押せば倒れてきりぎりす春月や招かれゆけば柩ある客人は青無花果を見てをられ河骨にどすんと鯉の頭かな墓石に映つてゐるは夏蜜柑一寸ゐてもう夕方や雛の家どう見ても子供なりけり懐手/など。

 

 

 

さくらんぼ 茎をしばらく持つてゐる 丸谷才一

 

この着眼、この発想!大仰なところなど、どこにもない。この肩すかしには、ほと、ほと感心する。「やられた!」感がハンパない。「灯台下暗し」の、「当たり前」過ぎて、誰もが完全に見過ごしてしまう、この「何気ない動作」、そこを狙ったように言葉にする。この「はぐらかし」ともいえる着眼の技!「参りました」と、もう手放しで笑うしかない。こういう着眼力が、彼の文章を下支えしているのだな、と改めて思う。丸谷は、やたらに暗くて深刻ぶる態度、じめじめと湿った感情的な文章、偏狭な真面目さや厭世的な世界観が大嫌いだった。いたずらにイデオロギッシュな態度やファナティック(熱狂的)な主張からも遠ざかっていた。その彼にして、この一句。納得である。丸谷才一(1925-2012)には他に正月や肉魚酒ウィーン・フィル枝豆の跳ねてかくれし忍者ぶり永き日や車内のひげの品さだめ闇に置けば呪文つぶやく蜆かなばさばさと股間につかふ扇かなところてんあの国宝の瀧おもふ長き夜をかたみに聞かすいびき哉など。

 

 

 

水温む赤子に話しかけられて 岸田稚魚

 

赤子に話しかけることはあっても、赤子から話しかけられることは、まずないのではないか。赤子はその自己防衛的な動物的勘で大人を、安心できる人か、そうでないかを瞬時に見分ける。岸田稚魚はその号に「稚」という字を敢えて使うくらいだから、きっと大人になっても、幼心を多分に持った人だったろう。邪気のない人として、赤子のお眼鏡に適ったということは、彼にとって有名人に声をかけられるより、よほど嬉しかったに違いない。その嬉しさ、心にぽっと灯が点ったかのようなその喜びは、季節の変わり目に、今までとは違う水温の変化を感じて、春の到来を喜ぶ、その気持ちに通じていただろう。為政者を選ぶ際にも、この赤子の勘を活用できれば、今とはずいぶん違った世の中になるに違いない。「幼子のようにならなければ、神の国には入れない」と言ったキリストは、もしかしたらこの幼心が、思いのほか大きな変革の力を持つことを知っていたのかもしれない。岸田稚魚(1918-1988)には他に東京へ歩いてゐるやいぬふぐり投票の帰りの見切苺買ふうそ寒き顔瞶め笑み浮かばしむ水中花だんだんに目が嶮しくなる少女と駈く一丁ほどの夕立かな泣けとこそ北上河原の蕗は長けぬ寒の坂女に越され力抜けバス降りし婆が一礼稲穂道/など。

 

 

噴水にはらわたの無き明るさよ 橋 閒石

「噴水」と「はらわた」をとり合わせる、この発想!この縁のない二者を強引に結び付ける力技、これが俳句を「詩」に変える。噴水にはらわたが無いのは、自明である。その「自明」を敢えて言葉にしてみる。これも「詩」を紡ぐ一つの方法である。さらに、「はらわた」と「明るさ」のとり合わせ、ここにも「詩」が発生する。「はらわた」は、光の射さない体内にあり、したがって「暗い」。噴水は当然のことながら屋外にある。内と外、明と暗、対極にあるものを一つ土俵にのせる、これが「詩」だ。橋 閒石には他に雁帰る幕を揚げてもおろしても三枚におろされている薄暑かな夏風邪をひき色町を通りけり大脳のよろめきに照る桜かな春山のむこうから物頼まれたり耳垢も目刺のわたも花明り蝶になる途中九億九光年陰干しにせよ魂もぜんまいも/など。

 

 

仰山に猫ゐやはるわ春灯 久保田万太郎

 

「仰山(ぎょうさん)」「ゐやはるわ」、これらは明らかに京の話し言葉。この句は作者が祗園に泊まって桂離宮を拝観した折にできた句らしいが、何処と説明しなくとも、この話言葉一つで京都と分かる。春灯だから、季節は春。春といえば「猫の恋」だ。「猫の恋」という季語を使わずに、「猫の恋」を描き、暗示する。そのものズバリを描くのでは、「言葉の職人」としては、あまりにも芸が無さすぎる。ちょっとヒネった、こういう間接的なやり方で、それとなく暗示する方が、よほど粋だし、機知もきいて、腕の見せどころというものだ。ベテランの余裕と、遊び心は直球を許さず、というところか。戯曲も書き、劇の演出もしていたという作者だから、話し言葉(台詞)は、当然のことながら書き慣れている。素人が挿入をためらう話し言葉も、万太郎にとっては、朝飯前、お手のものだったろう。久保田万太郎には他に/東京にでなくていゝ日鷦鷯(みそさざい)/竹馬やいろはにほへとちりぢりに/時計屋の時計春の夜どれがほんと/パンにバタたつぷりつけて春惜む/あわゆきのつもるつもりや砂の上/秋風やそのつもりなくまた眠り/あきかぜのふきぬけゆくや人の中/など。

 

 

 

能もなき教師とならんあら涼し 夏目漱石

 

今年は漱石没後100年である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)生まれ。俳号は愚陀仏。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、「負け惜しみの強いこと、変わり者」の例えである。「漱石」は親友子規の数多いペンネームのうちの一つで、漱石は子規からこれを譲り受けた。この句には、漱石の変人としての面目が躍如している。「あら涼し」だなんて、なかなか使えるものではない。これ一つとっても、幼少期に育まれた、彼の内心の屈託が解ろうもの。能のあるところを誇示したい人が大半の中にあって、へそ曲りは、敢えて能のない自分を誇示する。だから「大学教授」という世間受けする職業と肩書をあっさり捨て、自分が本当にやりたかった小説家に、迷うことなく転身することができた。誰にどう思われようが、足を引っ張られようが、自分のやりたいことは、やる!あくまでも、自分の本音を生きる!そんな漱石だったからこそ、後世の私たちにも響くものを残せたのだと思う。他者の期待に沿うことで、他者の承認を得るのではなく、自分の期待に沿い、自分で自分を承認する、自己卑下とは無縁の生き方。すべからく「漱石に続け!」だ。夏目漱石(1967-1916)には他に罌粟の花左様に散るは慮外なり秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻落ちさまに虻を伏せたる椿哉叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉何となく寒いと我は思ふのみ秋風やひびの入りたる胃の袋凩や海に夕日を吹き落とす月に行く漱石妻を忘れたり/など。

 

 

葉桜や家出をおもひ家にゐる 中尾寿美子

 

「葉桜」(植物)と「家出」(人事)の取り合わせが新鮮。この家の日常が見える。そしてこの家の日常は、多くの家の日常でもある。花のすっかり散った、期待や、ワクワク感とは無縁の、まさに「葉桜」状態。決まりきった、ルーティン化した、倦怠感ばかりがのさばる日常。「ふっ」と家出したくなる。新しい可能性に賭けてみたくなる。家出したら、何かが変わる予感がする。少なくとも今の現状は打破できそうだ。頭の中で自分ともう一人の自分が密談をする。考えれば、考えるほど決断ができなくなる。桜が散った後も、枝にしがみついて離れない葉のように。中尾寿美子には他に霞まんとしてむづかしや足二本十分に老いて蓬に変身す旅人はぱつと椿になりにけりもう鳥になれず芒のままでゐる次の間にときどき滝をかけておくパラソルを廻し胎児をよろこばす大空の淋しき国へ凧もしかして芽吹くか箸も端々もなど。

 

 

 

鬼も蛇も来よと柊挿さでけり 後藤綾子

 

この言上げ、この心意気やよし!これぞ俳人魂の、直球ド真ん中!天国より地獄のほうが、絶対面白いに決まってる!と言わんばかりだ。俳人を自称しながら、危ない橋は絶対渡らない、安全第一を志向するセコイ人種は、彼女の爪の垢を煎じて飲むべし!危険や、挫折、失敗、リスクはできるだけ回避したいという、その辺に掃いて捨てるほどある人情には、「ぺっ」とツバをひっかけ、「ふん!」と蹴とばす、それが綾子流。俳句界には、こういう肚の据わった女傑が目白押しだ。作品云々より、常人とは明らかに違う俳人格の涵養が先決。それさえできれば、あとは自動的に名句が出てくる仕掛け。後藤綾子(1913-1994)には他に笹子視む肝腎のとき躓けり運ばむと四枚屏風に抱きつきぬ灼けし地にまる書いてあり中に佇つハンカチをきつちり八つに折り抗す老いてなどをれぬ椋鳥来る雨が漏る家中にてふてふ湧けり覚めにけり損してもこの道をゆく氷水など。

 

 

啄木鳥や木に嘴あてて何もせず 能村登四郎

 

「何もせず」を詠むなんて!まるで定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」ではないか!「ない」ものを詠む、「ズルイ!」と思いつつ、「やられた!」って感じ。こういう「マイナス」の発想もアリ、という好見本のような句。能村登四郎(1911-2001)には他に散りしぶる牡丹にすこし手を貸しぬ妻死後を覚えし足袋のしまひ場所おぼろ夜の霊のごとくに薄着して春愁の中なる思ひ出し笑ひはたらいてもう昼が来て薄暑かな粟の穂や一友富みて遠ざかる怨み顔とはこのことか鯊の貌など。

 

孤独とはすさまじきかな栗の虫 清水径子

 

栗虫といえば、普通人は何を思うだろうか。栗と栗の味を台無しにする迷惑な存在、そんな風にしか捉えられないのではないか。清水径子は違う。栗虫は、生まれた時から天涯孤独、頼り、甘えることができる父母も傍にはいない。たった一人で生まれてみれば、そこは右も左も、上も下も、身動きできない栗の牢獄。その壁は厚く、まさに真闇そのもの。拷問用の独房のほうがよほど身動きできるし、明るいほどだ。人間がそんなところに居れば、赤子ならずとも、たちどころに発狂し、死んでしまうだろう。生きるため、まずは食わねばならない。栗虫の口は闇雲に闇を食べる!食えば、体は否応なしに大きくなる。その大きな体を入れるためには、それに応じた空間が必要だ。その空間確保のため、唯一できる方法は、食うこと!食えば太る。太ったら、スペース確保のために、さらに食う。食えば太る・・・その無間地獄。追いかけられるように、強迫的にひたすら食う。それ以外のことは許されない。それをしたからといって明るい未来が保証されているわけではない。自分がどこへ行くのか、何に成るのか、何も知らずに、ただ、ただ本能の命ずるまま食う。そういう地獄さながらの厳しい宿命の下に生まれてきた栗虫に、清水は「すさまじい」孤独を看て取る。この孤絶に比べれば、人間の孤独など取るに足りない、とでも言わんばかりだ。栗虫に対するリスペクトさえ感じる。この感性がなんとも特異!清水径子(1911-2005)には他にかなかなかな香典袋なくなれりわれは風速九メートルの羽抜鶏屑買ひがみてわれがみて雪催露踏んで茄子の花にもなりまする菫のやうに泪もろくて雨合羽人の声花の骸を掃きをれば十七歳跨いで行けり野の菫溺愛をするべく雪はまだ序曲/など。

 

褞袍の脛打つて老教授「んだんだ」と 加藤楸邨

褞袍(どてら)。こういう場面を我々凡人は句にしようと思わない。句になるとも思わない。オシャレでカッコイイ場面ではないからだ。そこを何食わぬ顔をして、平然と句にしてしまう。そこが、この人のスゴイところ。オシャレでカッコイイ句を作ろうなどという「邪心」は微塵もない。しかし、人が句にしないもの、それを、「よしっ、俺が句にしてみせよう」、という「野心」は満々だ。「季語のあるところ、句成らざるは無し」、季語さえあれば、どんな場面も句になるし、句にしてみせるという、ある種貪欲な、自在境に達した大人(たいじん)ならではの一句。加藤楸邨(1905-1993)には他に/炎昼いま東京中の一時打つ/冴えかへるもののひとつに夜の鼻/鰤にみとれて十二月八日朝了る/死にたしと言ひたりし手が葱刻む/子育ての大声同志行々子/歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず/春寒くわが本名へ怒濤の税/など。

 

 

 

昼寝よりさめて寝ている者を見る 鈴木六林男

 

「ある・ある」過ぎて、まあ、なんと人を喰った句だろう!力みゼロ!誰もが経験していて、誰もが句になどしそうもない、それをぬけぬけと、あっけらかんと句にする、このフェイント感!「やられた!」って感じ。こういう人は、絶対面白い人に決まってる!鈴木六林男(1919-2004)には他に何をしていた蛇が卵を呑み込むとき初景色此岸は昨日崩れおちさみだるる大僧正の猥談と夜咄は重慶爆撃寝るとする血を売って愉快な青年たちの冬かなしきかな性病院の煙出向日葵に大学の留守つづきおり泥棒や強盗に日の永くなりなど。

 

 

運動会の地面をむしろ多く見る 阿部青鞋

 

この「盲点」を見つける目!「当たり前」に誰もが見ていて、誰もが視ていないもの、そこに「目を付ける」、それが俳人の目。「新鮮な驚き」を伴った俳句の「種」が落ちているのは、どこか「特別」「特殊」なところではなく、見慣れた日常そのもの。そこを表から、裏から、斜めから、上から、下から、あらゆる角度から見つめ直してみる。日常こそが、「意外」と「驚き」に満ちているのだ、ということを識っているのが俳人なのだ!必要なのは、私たちの物を見る目の「角度」と「精度」。人でも、人生でも、何事につけ、ハンカチの「シミ」ではなく、ハンカチの大部分を占める「シミ以外」を見る目を養うこと。人間をやめて、時どき動物や、虫や、木や、風や、案山子や、家具になって、ものを見てみること。この「目」さえあれば、自在に俳句の世界を遊ぶことができる。阿部青鞋(1914-1989)には他に水鳥の食はざるものをわれは食ふくさめして我はふたりに分れけりこの国の言葉によりて花ぐもり正直に花火の殼が落ちてゐる片あしのおくれてあがる田植かな七夕や輪ゴムが一つ落ちてゐる啓蟄のそとから家の中を見るなど。

 

 

 

胡桃割るこきんと故郷鍵あいて 林 翔

「胡桃」「こきん」「故郷」「鍵」のk音のリフレインが、何とも耳に心地よい。胡桃には和胡桃と西洋胡桃があるが、これは後者だろう。和胡桃は味はいいのだが、木質の皮が異常に固く、金鎚で割ると中身は必ず壊れ、全形を崩さずに出すのはほぼ不可能である。当然音も「こきん」とはいかない。我が家では、灰にくべたり、火に炙るなどして、口の少し開いたところを包丁で半分に割り、爪楊枝か何かでほじくり出すようにして食べていた記憶がある。その点西洋胡桃なら木質の外皮も、手でも割れないことがないほど薄いので、上手くやれば中身を丸ごと傷つけず出すことが可能だ。音も、それなりの軽やかな音である。田舎であれ都会であれ、生れ在所としての「故郷」のない人はいないが、多くは生まれ故郷を離れ、他郷に移り住む。「去る者日々に疎し」で、生まれ故郷を思い出すのは、偶々何かのきっかけがあって、ということが多い。胡桃に似た脳の記憶の中の故郷、その鍵付き日記の「鍵」を不意に開けるのは、音だったり、匂いだったり、味だったり、どちらかというと感覚的なものが多い。こんな風に「こきん」という音が「こきょう」を引っ張り出すこともあるのだ。林 翔(1914-2009)には他に/さんずゐは点点点の涼しさよ/今日よりは冬帽と呼ぶソフトなり/百態の人の一人は汗拭けり/ファインダーてふ極小の窓の春/憲法記念日何はあれけふうららなり/春服の人ひとり居りやはり春/今日も干す昨日の色の唐辛子/門松に結晶体の雪刺さる/など。

 

 

 

睦ごとはこのごろとんと桜餅 茨木和生

 

この脱力感、好きだなあ。要するに、色気より食い気ということだが、「とんと」などという俗な言い方が、なんとも気が利いている。さらりと何気に詠んでいるようだが、「睦ごと」=「色ごと」に「桜餅」=「ピンク色」をとり合わせて、かけ離れた二物をちゃんと通底させたり、O音を連打して調べを作るなど、「かるみ」の句ながら、「技あり、あり」である。俳句巧者の句ほど、これ見よがしのドレスアップではなく、「さりげない」上質の普段着を着ている、という見本のような句。茨木和生(1939-)には他にミス卑弥呼準ミス卑弥呼桜咲くお尻から腐つて来たる瓜の馬夕刊のなき信州の大夕焼鰯雲この一族の大移動傷舐めて母は全能桃の花正月の地べたを使ふ遊びかなくれなゐの色のいかにも毒茸青空のくわりんをひとつはづしけりなど。

 

 

 

昼寝するつもりがケーキ焼くことに 稲畑汀子

 

「脱力感」「あるある感」満載の句。当たり前過ぎて誰も敢えて俳句にしないだろう「些事」を、しらっと句にしてしまう。こういう「目の付けどころ」が、なんとも俳人だ。詩人の西脇順三郎は、「芭蕉の俳はいつも笑いと幽玄とつながり最高の俳となる。相反するものの連結であるから美となるのである」と述べている。「昼寝」と「ケーキ」という普通は結び付かない、かけ離れた二物のとり合わせも、独創的で斬新だ。「○○するつもりが△△することに」、この型を使って、「かけ離れた二物」をとり合わせれば、簡単に名句ができる仕掛け。真似しない手はない。誰もまだ句にしていない「未踏」は、遠くへ出掛けて行った先にというより、「灯台下暗し」になりがちな身近な足元に、「発見」を待って、ふんだんに息を潜めているのだ。稲畑汀子(1931-)には他に日向ぼこし乍(なが)ら出来るほどの用年賀状だけのえにしもいつか切れとらへたる柳絮を風に戻しけり転びたることにはじまる雪の道どちらかと言へば麦茶の有難く人事と思ひし河豚に中りたる地吹雪と別に星空ありにけりなど。

 

 

 

初富士を隠さふべしや深庇 阿波野青畝

 

この句を読んですぐ思い出すのは、万葉集巻一にある、近江遷都に伴い、已む無く住み慣れた奈良・明日香を旅立たねばならなかった額田王の、「三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや」という歌。「隠さふべしや」を今風に訳せば、さしづめ「もお、なんで隠すのよ、隠さないでよ、イヂワル!」、という感じか。目出度い初富士をそのまま素直に詠めばいいものを、「庇が深すぎて、せっかくの富士山が見えないじゃないか」と難癖をつけ、茶々を入れずにおれない俳人の面目躍如の一句。阿波野青畝(1899-1992)には他に河豚宿は此許(ここ)よ此許よと灯りをりひとの陰(ほと)玉とぞしづむ初湯かな浮いてこい浮いてお尻を向けにけりかがやける臀をぬぐへり海女の夏鬱々と蛾を獲つつある誘蛾灯太き尻ざぶんと鴨の降りにけり鮟鱇のよだれの先がとまりけり/など。

 

 

 

俳諧道五十三次蝸牛 加藤郁乎

 

これはまあ、なんと見え透いた句だろう。「東海道」を「俳諧道」に置き換えたことが見え見え。俳諧の道は、新幹線で一っ跳びとはいかないんだよ、蝸牛のようにのろのろ地道にやるしかないんだよ、ゴールは思いのほか遠いのだよという、これまた解り易過ぎるメッセージ。詩人・加藤郁乎がなんでこんな身も蓋もないことを、と思うだろうが、これは間違いなく彼の実感だろう。詩人のみならず、短歌から入ってきた人達も皆異口同音に言うのが、「俳句は本当に難しい」ということ。ここで読者はアレ?っと思うだろう。「季語+季語以外」で「かんたん」に誰にでも作れるのが「俳句」じゃなかったっけ?確かに多くの俳人がそう声高に言って、全国津々浦々でウブな素人をたぶらかしている(笑)。しかし、それは「俳句」の話。「俳諧」はそうはいかない、というのがこの句の言わんとするところ。「俳句」と「俳諧」は似て非なるもの。「俳句」は子供でもできるが、「俳諧」は、人生の荒波に鍛え上げられ、多様な経験に練り上げられた、ほんまもんの「大人」にしかできない文芸なのだ。「俳諧」の「諧」は、言わずと知れた「諧謔」の「諧」。詩人の西脇順三郎は「俳諧師」芭蕉の俳の特質を、イロニー、パロディー、諧謔、笑い、暗示、とぼけ、とんちにあると述べている。その「諧」を物や風景に仮託して、これ見よがしにではなく、いかにサラリと何気に一句に仕立て上げるか。お子ちゃまには、逆立ちしても出来ない芸当である。辛酸を散々舐めたあげく、熟れ鮓のような、通好みの微妙な味わいにまで人格が陶冶され、ある種突き抜けた一握りの大人たち。俳人格の深まりとともに、軽妙洒脱な句境へ透体脱落していった人生の達人にしかできない、人間力の芯を試される、怖ろしく、高度な文芸なのだ!加藤郁乎(1929-2012)には他に流行はどうでもよけれ古すだれあらかたは二番煎じに初しぐれ三夕やさいふをさがす秋の暮本物は世に出たがらず寒の鰤売文は明日へまはして菊の酒お中元おなじやうなる句集来る俳人も小粒になりぬわらび餅定型にすぎぬ凡句やにぎり鮓/など。

 

 

 

緑蔭にして乞はれたる煙草の火 安住 敦

 

緑蔭の「さわやかさ」を、わざと煙草の煙で台無しにしようという、この魂胆、この悪戯心はどうだ!緑蔭の「本意」や手垢べったりのイメージを、敢えてぶち壊してやろう、払拭してやろうという、この骨太で静かな反骨はどうだ!「こういう緑陰だって、あっていいじゃないか」と、既成のイメージと真反対のイメージを持ち込む勇気、この肚の据わり具合はどうだ!ヤワな自意識なんかとっくにかなぐり捨て、批判を恐れぬ、この堂々たる胸の張り具合はどうだ!へそ曲がりで唯々諾々としない内心をポーカーフェイスで隠し、ニヤニヤとお茶目にちゃっかり改革してしまうしたたかさ!しみじみ俳人だなあ、と思う。安住 敦(1907-1988)には他に雪の降る町といふ唄ありし忘れたり梅雨の犬で氏も素性もなかりけり甚平着て女難の相はなかりけり春昼や魔法の利かぬ魔法壜ひとの恋あはれにをわる卯浪かな一弟子の離婚の沙汰も十二月届きたる歳暮の鮭を子にもたすなど。

 

 

戦争も好きと一声かたつむり 宇多喜代子

 

戦争と蝸牛を同じ土俵に乗せるなんて!と、思わず呻ってしまう、この大胆な配合!あの穏和極まりない蝸牛と戦争が、どこでどう結びつくというのか。蝸牛ほど戦争と遠い存在はない、というのが一般的な見方だろうに、それを敢えて裏切ってみせる。ここに俳人魂が躍如している。蝸牛は雌雄同体である。したがって雌を奪い合って雄同士闘うという必要がない。食べるものもほとんど植物性のものだ。しかしどの世界にも例外はあるもので、それが「戦争も」の「も」の示唆するところだ。つまり、「平和」も好きだが「戦争も」好き。事実ハワイや小笠原諸島などでアフリカマイマイ駆除のため人為的に導入された米国南部原産のヤマヒタチオビ(結果的には、これらの島々の固有種を捕食して絶滅に追い込んだ)や、近年日本の一部に定着した地中海原産のオオクビキレガイのように、他のカタツムリや陸貝を捕食する肉食性の蝸牛が現にいるのである。作者がこの事実を知っていたかどうかは知らない。もしかしたら童謡がこの句のインスピレーションの源だった可能性がある。「でんでん虫々 かたつむり、お前の頭は どこにある、角だせ槍(やり)だせ 頭だせ」。「槍」で角突き合わせる→戦争、多分こっちのほうが正解だろう。生存競争という戦争は、生命40億年の必然で、必要悪であり、蝸牛も例外ではない。人間の歴史も戦争に次ぐ戦争の連続だった。「平和が好き」で戦争を忌む人が大半の中、例外的に「戦争や闘いが好き」、という人は確実にいる。ゲーマーがゲームに熱中するように、アドレナリンが出る興奮状態は一種の中毒、癖になるからだ。そして歴史を牛耳るのは、いつでもその例外の、増幅された小さな一声なのである。宇多喜代子(1935-)には他に横文字の如き午睡のお姉さんわかさぎは生死どちらも胴を曲げあきざくら咽喉に穴あく情死かなそれとなく来る鶺鴒の色が嫌乾坤に丈を縮めて那智の滝集つて散つて集まる蕨狩コカコーラ持つて幽霊見物に仰山な桜吹き入る虎の檻/など。

 

 

 

悲しみの牛車のごとく来たる春 大木あまり

 

「春」に「喜び」ではなく、「悲しみ」を敢えてとり合わせる。冬の重しが取れて本来なら軽やかであるはずの春の気分に、あえて牛車という、いかにも時代遅れのイケてない鈍重な乗り物をぶっつける。このへそ曲がりな感覚が、なんとも俳人だ!一読『「牛車のような悲しみ」と「春」との関係を述べよ』、という難題を出された気分になる。答えがすぐに出ない分、「ああだろうか、こうだろうか」と、頭が自動的に答えを求め始める。完全に作者の術中だ。春だからといって浮かれることのできる人は、春に悲しい思い出のない人である。牛車は「過去」の乗り物。作者は、春という本来なら夢や希望の代名詞でもある季節に、ただならぬ傷心、トラウマを抱えた過去があるのだ。失恋や、挫折や、愛する人を亡くしたのが、春だったかもしれない。少なくとも、パステルカラーを灰色に塗り替えざるを得ないような、重く、悲しい出来事が春にあったのだ。大木あまり(1941-)には他に鯛焼のあんこの足らぬ御所の前寒風に売る金色の卵焼女番長よき妻となり軒氷柱秋風や射的屋で撃つキューピッド春の波見て献立のきまりけり手の切れるやうな紙幣あり種物屋寝ころべば鳥の腹みえ秋の風助手席の犬が舌出す文化の日など。

 

 

 

さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし 中原道夫

 

「〇〇は△△できぬゆゑ◇◇」、この作句方程式は万能だ。試してみる価値はある。しかし、「さざんか」と「いかだ」のように、通常は無関係な二つの言葉を、ただ無闇にとり合わせればいいというわけではない。この句なら、「さざんかは何故いかだをくめないのか」、その<何故>に説得力がなければならない。山茶花は生垣に仕立てられて、誰もが目にしたことのある木だ。見れば分かるが、山茶花は根元からすぐ幹が何本にも分かれ、しかもその幹は真っすぐではない。材質も固く、枝を切り落とすだけでも、いかにも難儀だ。これではおいそれといかだは組めない。他の木は、花や実や紅葉、黄葉を楽しむほかに、薬効や木工建築材や様々な用途に使われ、重宝されるが、山茶花の取り柄は、花の少ない冬にいささかの色どりを添える、その程度のものでしかない。乳母日傘で育ったお嬢さんのように、一見華やかなようで、その実さびしい、それが山茶花の内実なのだ。中原道夫(1951-)には他に週刊新潮けふ發賣の土筆かな瀧壷に瀧活けてある眺めかな炬燵せりこころ半分外に出し小腹とは常に空くものももちどり汁の椀はなさずおほき嚔なる決めかねつ鼬の仕業はたまたは名月を載せたがらざる短冊よ/など。

 

 

 

ハンカチの折り目うしなふ秩父かな 櫂未知子

 

「ハンカチの折り目うしなふ」というのは、要するに汗をたくさんかく、ということだろう。アイロンをかけるとき、霧吹きすると皺が伸びやすくなるのと同じ原理だ。そして、それが「秩父」だと。北海道出身の櫂さんにとって、金子兜太の故里・秩父は、緑がふんだんにあるにもかかわらず、予想に反して、「かな」で詠嘆したくなるほど暑いところだったのだろう。秩父は四方を山で囲まれた盆地だから、田舎とはいえ、夏はことのほか蒸し暑い。私も自転車で秩父を一周したことがあるので、よく分かる。「暑い」ということをストレートに言わずに、「暑い」→「汗をかく」→「ハンカチが折り目を失う」という風に、連想ゲーム風に「言い換え」、間接的に匂わすという作句法は、ストレートじゃないぶん、「ハンカチが折り目を失うってどういうこと?」と、読者の想像を否応なく掻き立てる。この方法、この仕掛けが、単なる「報告」を「詩」に変える、一つの有効な方法なのだ。櫂未知子(1960-)には他に菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか綺麗事並べて春の卓とせり夕立や肌よりにほふ正露丸天高く事情聴取はつづきをり傷心の旅だといふがサンドレス蠅帳や市外局番長き町ああ今日が百日草の一日目歳晩の夕餉は醤油色ばかりなど。

 

総金歯の美少女のごとき春夕焼 高山れおな

 

春の夕焼けを「総金歯の美少女」だなんて、なんてぶっ飛んだ発想だろう!この素晴らしく、思い切ったイマジネーションの跳躍力!まさに俳人だ!「こんな少女、いない」と思う。しかし素直に、金の勝った圧倒的に美しい夕焼けを見たんだろうな、と思わせる。あり得ない、「非現実的な比喩」なのに、説得力がハンパない。リアリティのない比喩が、かえってリアルに風景を現出させるという、逆説的、革命的一句!高山れおな(1968-)には他にダライ・ラマ顔の親爺で甚平で駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり君地獄へわれ極楽へ青あらし枕頭に陽炎せまる黒田武士土佐脱藩以後いくつめの焼芋ぞ白鳥の首つかみ振り回はす夢サラリー数ふ恋ざかりなる日盛に底紅や人類老いて傘の下/など。

 

老鶯をきくズロースをぬぎさして 辻 桃子

一読、笑いがこみ上げてくる。目に浮かべたくなくとも、浮かんでしまう。「あはは・・・」である。日常の「ブザマ」も立派な俳句の種なのだ。この「カッコワルサ」を逆手に取る気っぷと勇気!女性でここまでできる人はそういない。男も女もやたらカッコイイ自分を演出したがる中、その逆を敢て指向し、エイヤッと自分のブザマをさらけ出す、その胆力!そこに、俳人の俳人たる面目が躍如する。「老鶯」にぬぎさしの「ズロース」をとり合わせるだなんて、前代未聞!なんてカッコイイんだ!ホレる!さすが虚子忌に大浴場で泳いだ人だけのことはある!辻 桃子には他に/包丁を持つて驟雨にみとれたる/右ブーツ左ブーツにもたれをり/胴体にはめて浮輪を買つてくる/虚子の忌の大浴場に泳ぐなり/五十八階全階の秋灯/青嵐愛して鍋を歪ませる/アジフライにじゃぶとソースや麦の秋/秋風やカレー一鍋すぐに空/など。

 

 

漁師にはつまらないこと千鳥来る 後藤比奈夫

「感動」しか俳句にならないと思っている人には、この「発見」は衝撃的だ。見慣れて、飽き飽きして、およそ「感動」からほど遠い、そういうことも俳句になる、俳句にしてしまう、このしたたかさが、まさに俳人魂なのだ。「津軽ではつまらないこと雪景色」「老いの身につまらないことクリスマス」、、、など、など幾らでも作れそうである。力みなどどこにもない。芭蕉が晩年に到達した究極の境地「かるみ」の句。俳人が目指すべきは、まさにこの「かるみ」の境地を絵にした句なのだ。なぜなら「俳」の一字が示唆するのは「かるみ」だからだ。「かるみ」に到達した本まもんの「俳人」は、男も女も、老いも若きもダントツカッコイイ!後藤比奈夫(1917-)には他に何の灯といはず濃ゆきは秋深し初暦どきりと裸婦の現れし柊を挿す狂言の後家の役陽炎のゆがめて愉快なる行手看護婦に嫌はれながら蠅ふゆる父母に叱られさうな水着買ふ讀みづらく話すに都合よき春灯讀むための春の灯は別にあり/など。

 

 

 

ときどきはわれも一頭葛嵐 鳥居真里子

 

「頭」を単位とする動物には、大型の哺乳類・大型の爬虫類・学術的な希少動物・学術分野では蝶・人にとって重要、貴重、有益な小動物(実験動物、蚕など)・人が訓練した役に立つ犬(警察犬、救助犬、盲導犬など)・まれに大型の鳥類(駝鳥など)があると、『数え方の辞典』(飯田朝子著)にある。「ときどきはわれも一頭」とは、自分はヒトではあるが、その時々でこれらのいづれかの性質を露わにするということだろう。それはあり得ないことではない。真偽のほどはまだ定かではないものの、ヒトの胚は、「個体発生の過程で、系統発生を繰り返」している可能性があるからだ。「系統発生」とは、単細胞→多細胞・・・→魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という一連の進化の過程を言う。人の受精卵も生命誕生の40億年を一から・・・魚類→両生類→爬虫類と、十月十日で足早に辿りなおして、ようやく哺乳類ヒトとしてオギャアと生まれるらしい。もしそうなら、ヒトにはこれら先祖種の記憶や痕跡がどこかしらに残っているということになる。実際ヒトの脳は、本能をつかさどる爬虫類脳・感情を司る動物脳・思考を司る人間脳、の三層構造になっている。「ときどきはわれも一頭」は十分あり得るのだ。そしてそれを誘発するのが「葛嵐」。葛といえばすぐ思い起こすのは、陰陽師・安倍晴明の母ともいわれる信太の狐・葛の葉の「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌。葛嵐は、葛の葉を千切れんばかりに翻弄する強風。「うらみ」には風に翻り葉裏を見せる「裏見」が掛けてあり、葛嵐と見事に符合する。ヒトの理性を奪い、ヒトならぬものへ豹変させ、人生を翻弄する、そういう「うらみ」を、作者ももしかしたら体験したのだろうか。鳥居真里子(1948-)には他に/噴水の背丈を決める会議かな/鶯餅かこみて雨にかこまるる/福助のお辞儀は永遠に雪がふる/天上にちちはは磯巾着ひらく/鏡餅真ッ赤な舌をかくしけり/雪女郎です口中に角砂糖/おとうとよ螢袋へ急がねば/生家とは鮟鱇の口ほどの闇/など。

 

 

五山の火燃ゆるグランドピアノかな 波多野爽波

この句からまず思い浮かぶのは、塚本邦雄の「ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺」という歌。歌人や俳人は、どうもピアノを燃やすのが好きらしい。京都五山送り火は毎年八月十六日に行われ、京都を囲む五つの山に「大文字」「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の順に点火。山を燃やすというその発想自体、また盛大な燃え様自体が、あたかも高価なグランドピアノを惜しげもなく燃やすかのように、思いっ切りよく、豪勢で、剛毅だ。この日ばかりは街路も家々も明かりを落とすという京都、国宝が参集する京都を、黒々と高価なグランドピアノに見立て、その周囲の山々が燃える様を、<燃えるグランドピアノ>と見立てたのかもしれない。いづれにしても、室町時代発祥の精霊送りの伝統行事とモダンなグランドピアノの「意表をつく」とり合わせ。斬新だ!波多野爽波(1923-1991)には他に/炬燵出て歩いてゆけば嵐山/席替へてここはふつくら夏座布団/来てすぐに気に入つてゐる避暑地かな/汗かかぬやうに歩きて御所の中/吾を見て雨の障子を閉めし人/鴨居に頭うつて坐れば水貝よ/大金をもちて茅の輪をくぐりけり/など。

 

葛の花来るなと言つたではないか 飯島晴子

 

葛の蔓のあの獰猛なまでの繁殖力!我が家は多摩川のかなり高い崖っぷちに建っているのだが、葛はその崖をやすやすと這い上り、ベランダ近くの雑木に絡まって、毎年その天辺で高々と赤紫の花を咲かせる。こういう環境に棲んでいると、「来るなと言ったではないか」という言葉が、まさしく葛に向けて発せられたものだという実感がある。先日向島百花園に吟行に行ったとき、藤棚かと見まごう、葛の棚仕立てを見た。たった一本の葛の蔓が年数を経て、私の小さな手では抱えきれないほどの太く逞しい<幹>に変わっていた!葛は、砂漠の緑化の先兵としても使われるくらい生命力が強い。刈っても刈っても生えてくる、その「しつこさ」には辟易する。もしかしたら人類滅亡後の地球は、葛、葛、葛に覆われ、葛に雁字搦めにされた葛惑星と化すのではないか、そう思わせるほど葛の生命力は脅迫的だ。晴子は三十八歳で俳句を作り始め、その作句の主な現場は吟行だった。白内障を発症し、吟行がままならなくなった七十九歳で、自ら人生にピリオドを打っている。彼女には失明後、聴覚系の句で新境地を開いてほしかった!飯島晴子(1921-2000)には他に蓑虫の蓑あまりにもありあはせ昼顔のあれは途方に暮るる色さつきから夕立の端にゐるらしき初夢のなかをどんなに走つたやら男らの汚れるまへの祭足袋瓢箪の足らぬくびれを云々す茶の花に押しつけてあるオートバイ/など。

 

冬海の近くの溝を飯の粒 飴山 實

【冬海】【溝】【飯粒】の「意表を突く」とり合わせが斬新。しかも「冬海」という、大きな、流動的で掴みどころのない実体に、「飯の粒」などという、瑣末で、掴みどころのある実体をぶつけてくる、この「対照的なものを無理なく結び付ける」センスは、ニクイとしかいいようがない。下水道が完備した今日ではめったにお目にかかれない光景。その発見には作者のささやかな驚きがある。仮に、まだ小川で菜っ葉やお釜を洗った時代の作だとしても、見慣れた光景に、敢て目を留めたということで、リアリティ、普遍性もバッチリだ。「溝を」の「を」には、そこを飯粒が「流れて」、いづれは海と同化するだろうことも示唆されている。そして「冬海」と「溝を流れゆく飯粒」には、冷え冷え、白々といった共通項があり、季感そのものが具象化されていて、これもバッチリである。飴山 實(1926-2000)には他に/仕あがれば日向にだして黒花輪/菜洗ひの去りたる泉荒れにけり/片町や霰捨てつゝ雲とほる/われの凭る壁に隣は雛かざる/帆に遠く赤子をおろす蓬かな/婚礼の透けてゆくなり桑畠/さいはての貨車を塩もて充たしをり/蚊を打つて我鬼忌の厠ひゞきけり/など。

 

 

街灯が宙に捉へて雪黒し 岡本 眸

「雪黒し」、この発見ができるかどうか、それが俳人かそうでないかの分かれ目。先入観を一度リセットして、まっさらな生まれたての赤ん坊のような自分になって、もう一度世界に対峙してみる。「見たまま」「あるがまま」を言葉に移し換えてみる。振り仰ぐ街灯の中の雪、逆光に見る雪の色は白いか?否、黒い!馬鹿正直に、黒いのだ!岡本 眸(1928-)には他に/喪の家の使はぬ物干竿灼けて/まず己れ落とし凍土掘りはじむ穴凍つる手が出て梯子の先掴む噴水の冬も高さを強ひらるるしやぼん玉さみし消えねば溝へ落つ春愁やガスの炎の丈ちがふ塵芥箱に仏花はみ出す冬の雨葬花の脚抱かれ冬の路地出づるなど。

 

 

鞦韆をゆらして老を鞣しけり 八田木枯

鞦韆=ブランコが喚起する「子ども」=「柔」に対し、対極の「老い」=「剛」をとり合わせている。「老を鞣す」、この表現が示唆するものは、老い=心身ともに柔軟さを失うこと、即ち頑固、保守的、新しいものを問答無用で突っ撥ねる、安全第一、変化を嫌う、向上心を失う、惰性、マンネリに甘んじる、無恥、、、など、など、老いにまつわるネガティブでエントロピー増大なイメージが前提になっている。「しかし」、と俳人は思う。「自分はそのような老人になりたいか?否!十把一絡げの、その辺にうじゃうじゃいる、老害と揶揄されるような老人になぞ、金輪際なってたまるか!前例踏襲するのは、俺の好みじゃない。断固、拒否する!」、と。しかし、その気持ちが強ければ強いほど、確実に前例踏襲仕様の自分もいることに気づく、そして愕然とする。そんな自分に気づいた時に彼が採る方法は、「子どもになって、もう一度見慣れた日常を見直してみる」ということ。「子どもの目」を手に入れて、毎日を新鮮な「発見」と「感動」に満ちた日々にすること。「鞣す」とは、堅い原皮から余分なたんぱく質や脂肪を取り除き、薬品処理して加工しやすいよう柔らかくすることをいうが、この言葉には、字面とは裏腹に、作者の並々ならぬレジスタンスの精神、抵抗の断固たる決意が秘められていて、その精神のあり様こそが、俳人であり、俳句的なのだ。八田木枯(1925ー2012)には他に晝寝より覚めしところが現住所金魚死に幾日か過ぎさらに過ぎとび翔たぬ鶴をいぢめて折りにけりをそはりしかずにかぎりの手毬うたねころべば血もまた横に蝶の空亡き母が障子あけずに入り來し春のくれ我も近所の人ならむなど。

鉄棒に垂れ短日に身をまかす 和湖長六

なぜこんなことをする気になったのか。その気持ちが、まず「普通じゃない」。かすかに命の危機が匂う。【鉄棒】と【短日】のとり合わせにも「意外性」がある。「垂れ短日に身をまかす」、その背後にあるのは、重力や自然の摂理に対する絶対的な無力感、そして信頼、それゆえの、「無為自然」と言い換えてもいい無条件の積極的服従、白隠の全肯定だ。「諦める」は「明らかに極める」からきていると、どこかで読んだことがある。この句は、まさに「諦観」を具体にして見せてくれた、禅問答のような句。和湖長六(1933-)には他に/レントゲンに冷えし心を圧しあつる/ストーブに蒼きてのひら二枚焼く/剥製の鷲の目が棲む寒の闇/「裁きは近い」などと脅かす旱街/不在なる神を捜して稲びかり/命終も身籠るも仰向いて夏/もういいかいまだ逝かないよ日向ぼこ/など。

 

 

青麦の突込んである鉛筆立 川崎展宏

【青麦】に【鉛筆立】をとり合わせるなんて「普通じゃない」。でもあり得ないことではない。こんなことをする人はいる。現にこの私がそうだ。家中のそこここに、種を結んだ種々の枯草や枯木、枯葉、鳥の羽など、など、気に入って捨てられないでいる空瓶に、無造作に「突込んである」。単純に自然の造形、デザインが美しいからだが、青麦も花材として使われるくらい、独特のフォルムが美しい。その青麦を突込むのが空瓶や花瓶ではなく、鉛筆立てとは!この「意外性」は俳句になる。鉛筆立てを花瓶代わりに使うという「柔軟な発想」に「驚く」。「あっ」という「発見」がある。青麦をドライフラワーにするつもりだったら穂を下に逆さに吊るすはずだから、突っ込まれた鉛筆立ては明らかに花瓶代わりだろう。もしかしたら川崎展宏、もしくはこの「発見」を得させてくれた人は、そのような自然の造形美を、そこここに飾らずにおれない人なのかもしれない。川崎展宏(1927-2009)には他に/金泥の仁王の乳首あをあらし/大皿のむかしの藍に冷し物/籠の中とびきり高き夏大根/山の端の逃げて春月ただよへる/如月の水にひとひら金閣寺常/盤木を金縛りして藤の房/吸殻をまはして春の嵐かな/疵のまま白木蓮となりぬべし/など。

 

 

たいくつもきわめてみればさるすべり 森さかえ

まず「たいくつをきわめてみる」という、そこに精神のあり様の「特殊性」を感じる。その結果が「さるすべり」。ここへ来て読者は、この「さるすべり」への「飛躍」に、罠のように引っかかる。これがいったい何を意味し、何を象徴しているのか?頭が忙しく、解を求めて動き始める。読者の足は、この句の前にとどまらざるを得ない。「たいくつ」も、猿が「さるすべり」の木の滑らかな幹を滑り台にして遊ぶように、使い方次第では、俳句という「遊び」の句材を提供する、立派な遊び道具になるということか。句材は平凡な日常のそこここにさりげなく置かれている。きわめれば、つまり通常とは違う「固定観念に縛られない、柔軟な視点」、その「視点の転換」さえ手に入れれば、どんなつまらない一事も句材ならざるは無し、平凡な「陰」は、たちまち非凡な「陽」へと様相を転じるのだ。森さかえ(1949-)には他にさみだれの電気釜など抱いてみるすまないがそこは銀河の非常口にぎやかに万有引力さくらさくアクセスはできませんのでいわし雲葱刻む横を光陰過ぎゆけり木枯らしのでるとこへでてぎょっとする除菌してみなゐなくなる良夜かななど。

糸屑をつけ下町に咲くカンナ 津沢マサ子

【糸屑】【下町】【カンナ】。何とも斬新な「とり合わせ」だ。糸屑をつけたカンナ、下町なら、さもありそうな光景である。糸屑の出所は、二階の物干し台だろう。洗濯物を干すときに見つけた糸のほつれ、それを千切り、人が見ていないのを幸いに、何気に柵の外に捨てたのだ。それがいったんは屋根にとどまったものの、乾いて飛び今を盛りと咲くカンナの紅い花に引っかかった。無いはずのものが有ることへの「違和感」、その「特殊性」が、作者の足と眼を止めさせ、作句意欲に火を点けた。津沢マサ子(1927-)には他に/いらくさを愛しきれない昼下がり/一千万年すぎてヒラメを裏返す/秋天になり損ねたる廃墟かな/葉ざくらの汚れはげしき日をゆけり/気がついたときは荒野の蠅だった/ゆめ覚めし場所に大根煮えており/断崖にきて人知れずとぶ穂絮/など。

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